コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

天川清三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
天川 清三郎
1940年
基本情報
出身地 日本の旗 日本 京都府
生年月日 (1919-12-27) 1919年12月27日
没年月日 (1944-10-26) 1944年10月26日(24歳没)
身長
体重
170[1] cm
67[1] kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手外野手
プロ入り 1939年
初出場 1939年3月19日[2]
最終出場 1940年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

天川 清三郎(あまかわ せいざぶろう、1919年12月27日 - 1944年10月26日[3])は京都府出身のプロ野球選手投手外野手)。

来歴・人物

[編集]

高校野球の強豪校として知られる平安中学(現・龍谷大学付属平安中学校・高等学校)の出身。在学中は甲子園に8回出場し、最後の出場となった1938年夏の大会では優勝投手になった。岐阜商との決勝戦では9回表に1点を先制されるも、9回裏に2点を取ってサヨナラ勝ちで優勝を決めるという、劇的な試合であった。この時に、サヨナラのホームを踏んだのが天川だった[4]。手を叩きながらホームインをする天川の写真も残っている[3]

平安中学卒業後の1939年南海軍に入団。デビュー2戦目のイーグルス戦で5安打完封勝利を飾る[5]など上々のスタートを切ったが、チームの貧打や自身の制球難により勝ち星は伸び悩んだ。また、当時の南海は兵役でレギュラー選手が次々に戦場に狩り出されて人材難だったため、投手だけでなく外野手として出場することもあった。それでも通算勝ち星こそ3勝だが、その内2勝が完封と甲子園優勝投手としての片鱗を見せた。

1940年シーズン終了後に応召1944年10月26日フィリピンレイテ島カトモン山で頭部貫通銃創により、戦死した[3]。享年24。

東京ドーム敷地内にある、鎮魂の碑には彼の名が刻まれている。

詳細情報

[編集]

年度別投手成績

[編集]




















































W
H
I
P
1939 南海 12 5 3 1 0 1 3 -- -- .250 222 50.2 47 0 23 -- 3 9 0 0 18 12 2.12 1.38
1940 16 7 3 1 0 2 5 -- -- .286 295 69.2 61 1 26 -- 2 13 0 0 33 20 2.57 1.25
通算:2年 28 12 6 2 0 3 8 -- -- .273 517 120.1 108 1 49 -- 5 22 0 0 51 32 2.39 1.30

年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1939 南海 15 29 28 0 4 1 0 0 5 3 0 -- 0 -- 1 -- 0 6 -- .143 .172 .179 .351
1940 20 29 28 2 8 0 0 0 8 0 0 -- 0 -- 1 -- 0 6 -- .286 .310 .286 .596
通算:2年 35 58 56 2 12 1 0 0 13 3 0 -- 0 -- 2 -- 0 12 -- .214 .241 .232 .473

背番号

[編集]
  • 8 (1939 - 1940年)[6]

脚注

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]