大野治純
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 生年不詳 |
死没 | 慶長20年(1615年) |
別名 | 治氏、氏治[1]、通称:壱岐守 |
官位 | 壱岐守 |
主君 | 徳川家康 |
氏族 | 大野氏 |
父母 | 父:大野定長、母:大蔵卿局 |
兄弟 | 治長、治房、治胤、治純 |
大野 治純(おおの はるずみ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。徳川氏の家臣。通称は壱岐守。別名に治氏(はるうじ)などともする。
生涯
[編集]大野定長の子というが、諸系図には名前がない。定長の子ならば、兄に治長・治房・治胤がいるので四男となる。
長じて徳川家康に仕え、使番となった[2]。知行は2,000石[3]とも、3,000石ともいう[4]。
慶長19年(1614年)、片桐且元との連絡役を務め、方広寺の大仏供養(京の大仏)をする旨の書状(板倉勝重との連署)を受け取る[5]が、これが後に方広寺鐘銘事件に発展すると、淀殿は母の大蔵卿局を正使[6]として送り、これが家康と面会する際に仲介をした[7]。9月に且元らが大坂から出奔すると、その経緯を詰問する使者として駿府より派遣されたが、兄・治長に怪しまれて入城を拒絶される[2]。
10月、織田有楽や治長を介して家康が和睦を望んでいると再度伝えた[8]。大坂冬の陣が始まった後にも、11月にまた使者となり、捕虜を治長のもとに送り返し、重ねて和睦を勧めた[9]。
慶長20年(1615年)、和睦成立の後の4月9日に治長が闇討ちによって負傷すると、治純は家康の許可を得て、兄を見舞った[3]。
大坂城の落城を知ると、公儀を憚り、暴病(急病の意味)で亡くなったことにするように言い含めて、京都で自害した[2]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年、189頁。ISBN 4404017529。
- 大日本人名辞書刊行会 編「国立国会図書館デジタルコレクション 大野治氏」『大日本人名辞書』 上、大日本人名辞書刊行会、1926年、615頁 。
- 徳富猪一郎『国立国会図書館デジタルコレクション 家康時代 中巻 大阪役己篇』 第12、民友社〈近世日本国民史〉、1946年、334-336頁 。
- 福本日南「国立国会図書館デジタルコレクション 城中の将士一 大野治長・治房・治胤・治徳 渡辺糺」『大阪陣. 前篇』南北社出版部、1918年、224-225頁 。