大谷光明
大谷光明 | |
---|---|
1885年4月26日-1961年4月3日 | |
法名 | 浄如 |
尊称 | 浄如上人 |
生地 | 京都府京都市下京区 |
宗旨 | 浄土真宗 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
寺院 | 本願寺(西本願寺) |
師 | 大谷光尊(明如) |
廟 | 大谷本廟 |
Komyo Ohtani | |
---|---|
基本情報 | |
名前 | 大谷 光明 |
生年月日 | 1885年4月26日 |
没年月日 | 1961年4月3日(75歳没) |
身長 | 180 cm (5 ft 11 in) |
国籍 | 日本 |
出身地 | 京都府京都市下京区堀川通花屋町下ル本願寺門前町(西本願寺) |
配偶者 | 九条紝子(公爵九条道孝の娘) |
子供 |
大谷光照 大谷富子(子爵・三宅直胖の妻) 大谷正子(近衛文隆の妻) |
経歴 | |
成績 | |
初優勝 | 1922年(大正11年) 第16回 日本アマチュアゴルフ選手権 |
大谷 光明(おおたに こうみょう、1885年(明治18年)4月26日 - 1961年(昭和36年)4月3日)は、京都府出身の僧侶、ゴルファー、ゴルフ場設計者。天狗倶楽部メンバー。法名は「淨如」。
人物
[編集]大谷光明は、1885年(明治18年)4月16日、京都府京都市下京区堀川通花屋町下ル本願寺門前町(西本願寺)に、浄土真宗本願寺派21世法主・大谷光尊(法名・明如上人)の三男として生まれる[1]。1899年(明治32年)、法主の後継者となったが、1914年(大正3年)引退した[2]。1906年(明治39年) - 1909年(明治42年)、本願寺派管長事務代理を務めた[2]。1907年(明治40年)、文学寮卒業、英国に留学(3年間)し、留学中にゴルフに没頭した[1]。その時に覚えたゴルフが、草創期だった日本のゴルフ界に大きな影響を与えた[1]。
帰国後、1914年(大正3年)、「東京ゴルフ倶楽部」会員となる[2]。1918年(大正7年)、「東京ゴルフ倶楽部・駒沢コース」で開催された「第12回 日本アマチュアゴルフ選手権」3位、1922年(大正11年)、「第16回 日本アマチュアゴルフ選手権」に優勝を飾っている[1][3]。長身から放たれるロングドライブを武器にする、トップアマであった[1][3]。1922年(大正11年)4月19日、英国のプリンス・オブ・ウェールズ(エドワード8世、後のウィンザー公)が来日した際、「東京ゴルフ倶楽部・駒沢コース」での親善試合では、皇太子(後の昭和天皇)とペアを組んだ[1][3]。
一方では、東京ゴルフ倶楽部の代表として、1924年(大正13年)、「日本ゴルフ協会」(JGA・ジャパン・ゴルフ・アソシエーション)創設に尽力した[1]。その後、1925年(大正14年)、再度英国に赴き、コース設計の技法を学び、日本ゴルフ協会に事業案を提出し、「日本アマ」、「日本オープン」などの競技開催を実現した[1]。1925年(大正14年)、英国から帰国後、真宗保摂会会長、浄土真宗本願寺派審判院長、日本教学研究所長を歴任[2]。1927年(昭和2年)「第1回 日本オープン」の開催を果たしている[1]。英語の原書を研究し、邦訳や出版するなど、ゴルフルールの基礎を作った[1]。1939年(昭和14年) - 1941年(昭和16年)、本願寺派管長事務代理を務めた[2]。
主な設計コース
[編集]- 1928年(昭和3年) - 「川奈ホテルゴルフコース・大島コース」静岡県伊東市
- 1929年(昭和4年) - 「名古屋ゴルフ倶楽部・和合コース」愛知県愛知郡東郷町
- 1940年(昭和15年) - 「東京ゴルフ倶楽部・秩父新コース」埼玉県狭山市
- 1952年(昭和27年) - 「箱根湯の花ゴルフ場」神奈川県足柄下郡箱根町
- 1954年(昭和29年) - 「大箱根カントリークラブ」神奈川県足柄下郡箱根町
- 1957年(昭和32年) - 「加古川ゴルフ倶楽部」兵庫県加古川市
エピソード
[編集]- 大谷光明は、当時としては珍しく身長が180センチ近くあり、豪快なスウィングから飛距離も飛ばしたという。「東京ゴルフ倶楽部」が朝霞に移転するさい、設計を巨匠ハリー・コルトに依頼したが高齢との理由で実現せず、代わりに来日したC・H・アリソンの審美眼を確かめるために、京都の龍安寺と桂離宮に案内し、アリソンの反応を図ったというエピソードが残されている[4]。
脚註
[編集]- ^ a b c d e f g h i j 『美しい日本のゴルフコース BEAUTIFUL GOLF CULTURE IN JAPAN 日本のゴルフ110年記念 ゴルフは日本の新しい伝統文化である』、ゴルフダイジェスト社「美しい日本のゴルフコース」編纂委員会編、「大谷光明 英国留学後トップアマとして活躍、日本のゴルフの基礎を作った」、東京 ゴルフダイジェスト社、2013年12月、2021年2月24日閲覧
- ^ a b c d e 『コトバンク』、「大谷光明」、朝日新聞社、2021年2月25日閲覧
- ^ a b c 「GOLF COURSE RANKING CLUB」、大谷光明 設計コース、2021年2月24日閲覧
- ^ 『美しい日本のゴルフコース BEAUTIFUL GOLF CULTURE IN JAPAN 日本のゴルフ110年記念 ゴルフは日本の新しい伝統文化である』、ゴルフダイジェスト社「美しい日本のゴルフコース」編纂委員会編、「大谷光明 英国留学後トップアマとして活躍、日本のゴルフの基礎を作った」、東京 ゴルフダイジェスト社、2013年12月、2021年2月25日閲覧
著書
[編集]- 『新日本史 第4巻』、「運動篇 ゴルフ 大谷光明」、万朝報社編、大正15年、2021年2月25日閲覧
- 『アルス運動大講座 第1巻』、「ゴルフ(大谷光明)」、東京 アルス、大正15年-昭和3年、2021年2月25日閲覧
- 『アルス運動大講座 第2巻』、「ゴルフ(大谷光明)」、東京 アルス、大正15年-昭和3年、2021年2月25日閲覧
- 『アルス運動大講座 第3巻』、「ゴルフ(大谷光明)」、東京 アルス、大正15年-昭和3年、2021年2月25日閲覧
- 『アルス運動大講座 第4巻』、「ゴルフ(大谷光明)」、東京 アルス、大正15年-昭和3年、2021年2月25日閲覧
- 『ゴルフ規則の註釈と判例』、東京 目黒書店、1935年、381P、2021年2月25日閲覧
- 『ホーム・ライフ』、「クラブ二十年 大谷光明」、69-69P、大阪 大阪毎日新聞社、1935年8月、2021年2月25日閲覧
- 『体育日本 19』、「協力會議への希望 大谷光明」、 22-23P、 東京 大日本体育会、1941年8月、2021年2月25日閲覧
- 『ゴルフマンスリー』、「新ルールについて 大谷光明」、42P、東京 三栄書房、1952年5月、2021年2月25日閲覧
- 『日本のゴルフ100年』、「第三章 昭和天皇と大谷光明」、久保田誠一 著、東京 日本経済新聞社、2004年7月、413P、2021年2月25日閲覧
関連文献
[編集]- 『美しい日本のゴルフコース BEAUTIFUL GOLF CULTURE IN JAPAN 日本のゴルフ110年記念 ゴルフは日本の新しい伝統文化である』、ゴルフダイジェスト社「美しい日本のゴルフコース」編纂委員会編、「大谷光明 英国留学後トップアマとして活躍、日本のゴルフの基礎を作った」、東京 ゴルフダイジェスト社、2013年12月、2021年2月24日閲覧