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大舘宗氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大舘 宗氏
栗原信充画
時代 鎌倉時代末期
生誕 正応元年(1288年
死没 正慶2年/元弘3年5月19日1333年[1]7月1日
改名 次郎[注釈 1]、又次郎、又二郎(仮名)
官位従四位
主君 新田義貞
氏族 大舘氏
父母 父:大舘家氏、母:不詳
兄弟 綿打為氏宗氏、金谷重氏、有氏
新田朝氏新田義貞義助の父)の娘
氏明幸氏宗兼氏兼、右馬助(時氏?)、六郎(時氏?)
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大舘 宗氏(おおだち むねうじ)は、鎌倉時代末期の武将。新田氏の支族。祖父は新田政義、父は大舘家氏、兄に綿打為氏、子に大舘氏明大舘幸氏大舘宗兼大舘氏兼、右馬助(時氏?)、六郎(時氏?)がいる。

生涯

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鎌倉時代末期、岩松政経の代官である堯海と田嶋郷の用水を巡り争論となり、控訴されて敗れる。この際は総領である新田宗家の調停ではなく、大舘・岩松両家は幕府に直接裁定を申し出ている。

元弘3年/正慶(1333年)5月、義兄弟にもあたる新田義貞を旗頭に、子息らや他の新田一族と共に鎌倉幕府に対し挙兵。鎌倉攻めにおいて義貞は部隊を3つに分割して進軍したが、宗氏は極楽寺切通しから突入する部隊の指揮を任された。5月18日に稲村ヶ崎の海岸線から[注釈 2]鎌倉市街突入を敢行しようとした。1度は北条軍を破って突破したが[2]大仏貞直が態勢を立て直すとその配下の本間山城左衛門との戦闘で討死した[3][2]。『梅松論』に拠れば、同18日の未明に稲村ヶ崎の海岸線から鎌倉にいったん進入するも、諏訪氏、長崎氏らの幕府方との戦闘となり、宗氏らは稲瀬川付近で戦死し、新田軍はいったん退却した、と記されている。

5月18日を死去日とするのは『尊卑文脈』によるものだが[4]、『太平記』は死去の日時を5月19日としている。享年46[5]

宗氏の討死によってこの方面軍の指揮系統が消失したため、一旦息子の氏明が軍を率いたが、宗氏討死の報を聞いた義貞が化粧坂方面を弟の脇屋義助に任せ、21日に極楽寺方面へ布陣してきたため、義貞が以降の指揮を取ることとなった[2]。その後、義貞は防御の堅い極楽寺切通しの突破ではなく、『梅松論』が伝えるところの宗氏の突入と同じルート、すなわち稲村ヶ崎の海岸線から21日未明に鎌倉市街に突入したとされている[注釈 3]

戦死した宗氏ら十一人は当初、御霊神社の付近に葬られ十一面観音が祭られたが、のちに改葬され、現在の稲村ヶ崎駅付近にある「十一人塚」に葬られているとされる。

大正4年(1915年)、従四位を追贈された[6]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『太平記』による記述。
  2. ^ この急峻な海岸には、極楽寺切通し掘削以前の主要街道「稲村路」が存在していた。
  3. ^ この突入は「太平記」に記述されているが一方の「梅松論」では、義貞は極楽寺切通しを突破したとされている。当時の海の干満を計算すると宗氏突入の18日は干潮であるが、21日未明はそれに当たらないため、巷談にあるように「義貞が太刀を海の神に捧げると、たちまち潮がひいて急峻な岬の海岸が通行可能になった」とするような海岸線の突破は難しい、とする説もある。しかしそもそも同海岸には極楽寺切通し開通以前の「稲村路」と呼ばれる古街道があり、そこを通過したとも考えられる。

出典

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  1. ^ 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年。 
  2. ^ a b c 永井 2003, p. 148.
  3. ^ 峰岸 2005, p. 63.
  4. ^ 山本 2005, p. 99.
  5. ^ 『群馬県史』第1巻
  6. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.34

参考文献

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  • 山本隆志『新田義貞』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2005年。 
  • 峰岸純夫『新田義貞』吉川弘文館人物叢書〉、2005年。ISBN 978-4-642-05232-0 
  • 永井晋『金沢貞顕』吉川弘文館〈人物叢書〉、2003年。ISBN 4-642-05228-3 
  • 真下和雄 編『新訂 新田族譜』世良田東照宮社務所、1974年。 

外部リンク

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