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大竹貫一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大竹 貫一
おおたけ かんいち
貴族院議員時代
生年月日 1860年4月2日
出生地 越後国蒲原郡中之島村
没年月日 (1944-09-22) 1944年9月22日(84歳没)
死没地 大日本帝国の旗 新潟県南蒲原郡中之島村
出身校 官立新潟英語学校中退
県立新潟学校
長善館
前職 地主
所属政党大日本協会→)[1]
大手倶楽部→)[2]
進歩党→)[1]
同志倶楽部→)[1]
憲政会→)[1]
革新倶楽部→)[1]
革新党→)[1]
国民同盟[1]
称号 従四位
勲二等旭日重光章
藍綬褒章
衆議院永年在職議員
配偶者 大竹ツネ
子女 大竹郁太郎
大竹フサ
丸山ハル
西村ヤイ
親族 丸山豊治郎(娘婿の兄)

選挙区 勅選議員
在任期間 1938年2月14日 - 1939年12月4日

選挙区 (新潟県第4区→)
(新潟県郡部→)
(新潟県第7区→)
新潟県第3区
当選回数 16回
在任期間 1894年3月1日 - 1898年6月10日
1902年8月10日 - 1924年1月31日
1928年2月20日 - 1938年2月14日

在任期間 1886年 - 1890年

南蒲原郡会議員

中之島村会議員
在任期間 1880年 - 1912年
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大竹 貫一(おおたけ かんいち、1860年4月2日(安政7年3月12日[3][4] - 1944年昭和19年)9月22日[1][3][4])は、日本の政治家衆議院議員貴族院勅選議員。族籍は新潟県平民[5][6][7]

経歴

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越後国蒲原郡中之島村(現:新潟県長岡市中之島)で、大庄屋大竹英治の六男として生まれる[8][9][10]。若槻元輔、長善館(吉田町粟生津)の鈴木惕軒に漢学を学ぶ[8]1873年、新潟学校に入り、1874年に官立新潟英語学校に入学し、土木工学を専攻したが[11]1876年8月に中退した[8][12]

1880年、中之島村会議員に就任(1912年まで在任)[8][12]南蒲原郡会議員、新潟県会議員も務め、刈谷田川改修工事、大河津分水工事の実現に尽力し、「大竹宗」と呼ばれた強い選挙基盤を確立した[4][8]

1894年3月、第3回衆議院議員総選挙に新潟県第四区から出馬して当選[13]。その後、第4回から第5回第7回から第14回まで、第16回から第20回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算16期、34年10ヵ月務めた[4][8][13]1905年9月5日、河野広中らと日比谷公園日露戦争の講和条約ポーツマス条約に反対する集会を開催し、それが暴動の引き金となったため(日比谷焼打事件)、大竹は検挙され起訴されたが1896年4月に証拠不十分で無罪となった[8][9][12]。日露事件の功のため勲四等に叙し旭日小綬章を賜る[5][7]第一次世界大戦後には、普選運動に尽力し普通選挙法の実現に貢献した[4][8][10]

大日本協会、進歩党、同志倶楽部、憲政会、革新倶楽部、革新党などを経て1932年国民同盟に転じる[1]

1938年2月14日、貴族院勅選議員に任じられ衆議院議員を退職[13][14][15]1939年支那事変日中戦争)処理方針の意見書を提出し、同年12月4日、貴族院議員を辞職した[9][14][16]藍綬褒章を賜る[17][18]。1944年9月22日、自宅で逝去した[11]

人物

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大竹家32代である[11]。大地主[5][7]、土地の名望家だった[19]。1874年、家督を相続した[19]

趣味は書画骨董[17][18]。宗教は真宗[17][18]。住所は新潟県南蒲原郡中之島村[5]

家族・親族

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大竹家
  • 父・鳳羽(ほうう、新潟平民)[5][6][7]
  • 母・タタ1829年 - ?、新潟、小柳浄雲の長女)[7]
  • 兄・皛七郎[5]
    • 同三男・興亜1884年 - ?、東京、喜谷喜和の入夫となり、市郎右衛門と改名)[19]
  • 弟・俶友1872年 - ?、分家)[5]
    • 同妻・ミサノ(東京、西澤之助の長女)[19]
  • 妻・ツネ1862年 - ?、新潟、久須美秀三郎の従妹)[7]
  • 男・郁太郎1882年 - ?)[5][6]
  • 長女・フサ1880年 - ?、新潟、大竹住啓の妻)[5][6][7]
  • 二女・ハル1884年 - ?、新潟、丸山豊治郎の弟茂治の妻)[5][6]
  • 三女・ヤイ1888年 - ?、東京士族、西村政枝の養子)[5][6]
親戚
  • 喜谷市郎右衛門(東京府多額納税者、薬種商)
  • 丸山豊治郎(高田日報社社長、衆議院議員)
  • 従兄弟の曾孫に女優の大竹しのぶがいる[20]

伝記

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  • 伝記編纂会『大竹貫一先生小伝』大竹貫一伝記編纂頒布会、1953年。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i 大竹 貫一とはコトバンク。2020年5月29日閲覧。
  2. ^ 『衆議院議員党籍録 第一囘議会乃至第四十囘議会』31頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年1月12日閲覧。
  3. ^ a b 故正五位大竹貫一位階追陞の件」 アジア歴史資料センター Ref.A12090540300 
  4. ^ a b c d e 『現代日本朝日人物事典』327頁。
  5. ^ a b c d e f g h i j k 『人事興信録 第4版』を60頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年11月14日閲覧。
  6. ^ a b c d e f 『人事興信録 第6版』を76-77頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年11月14日閲覧。
  7. ^ a b c d e f g 『人事興信録 第3版』を101頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年11月14日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h 『県央の人物』223-225頁。
  9. ^ a b c 『新潟県大百科事典』復刻デスク版、317頁。
  10. ^ a b 『新潟県県民百科事典』141-142頁。
  11. ^ a b c 小伝、中之島が誇る偉大な政治家を偲ぶ 大竹邸記念館。
  12. ^ a b c 『日本近現代人物履歴事典』105頁。
  13. ^ a b c 『議会制度百年史 - 衆議院議員』130頁。
  14. ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員』105頁。
  15. ^ 『官報』第3333号、昭和13年2月15日。
  16. ^ 『官報』第3875号、昭和14年12月5日。
  17. ^ a b c 『人事興信録 第14版 上』オ112頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年11月14日閲覧。
  18. ^ a b c 『人事興信録 第13版 上』オ116頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年11月14日閲覧。
  19. ^ a b c d 『人事興信録 第8版』オ104頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年11月14日閲覧。
  20. ^ NHKオンデマンド 『ファミリーヒストリー』「大竹しのぶ~語り継がれる大竹様伝説1世紀を経ての出会い~」

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第3版』人事興信所、1903-1911年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員党籍録 第一囘議会乃至第四十囘議会』衆議院事務局、1918年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年。
  • 野島出版編集部編『新潟県県民百科事典』野島出版、1977年。
  • 新潟日報事業社出版部編『新潟県大百科事典』復刻デスク版、新潟日報事業社出版部、1984年。
  • 西方藤七編著『県央の人物 : 三条・燕・加茂・吉田・分水・寺泊・田上・栄・弥彦・岩室・下田』野島出版、1989年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 朝日新聞社編『現代日本朝日人物事典』朝日新聞社、1990年。
  • 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。