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大窪詩仏

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大窪詩佛から転送)
七行絶句三行草書「残雪不消猶待伴」

大窪詩仏(おおくぼしぶつ、明和4年(1767年) - 天保8年2月11日1837年3月17日))は、江戸時代後期の漢詩人である。書画も能くした。常陸国久慈郡袋田村(現 茨城県久慈郡大子町)に生まれる。

は行(こう)、は天民(てんみん)、通称を柳太郎、のちに行光、は詩仏のほかに柳侘(りゅうたく)、痩梅(そうばい)、江山翁(こうざんおう)、玉地樵者、艇棲主、含雪、縁雨亭主、柳庵、婁庵、詩聖堂(しせいどう)、江山書屋(こうざんしょや)、既醉亭(きすいてい)、痩梅庵(そうばいあん)とも号した。号の詩仏は詩人 杜甫が「詩名仏」と称されたことによるものか、あるいは袁枚の号に因むと言われる。

経歴

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少年期

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詩仏が10歳の頃、隣家が火事となり大騒動になっていても、それに気付かず読書しつづけたという逸話が残っている。

父の大窪宗春光近は桜岡家の婿養子となったが離縁になり、詩仏を引き取って実家のある常陸国多賀郡大久保村に戻った。このため詩仏も大窪姓に復する。

大窪氏は常陸佐竹氏の重臣で、江戸時代に入るまで約200年にわたり大窪郷一帯を所領としていた[1]

佐竹氏の秋田(久保田藩)への国替の後も地元に残った詩仏の家は代々医を生業としており、宗春は田舎で身を沈めることを潔しとしなかったため、数年後単身で江戸にて小児科医を開業する。江戸では名医として評判となり大いに繁盛した。

修業時代

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詩仏は15歳頃、江戸日本橋新銀町で開業する父の元に身を置き、医術を学び、剃髪し宗盧と号した。21歳頃より山本北山の門人 山中天水の塾 晴霞亭に通い儒学を学び、市河寛斎江湖詩社にも参加して清新性霊派の新風の中、詩作を始める。24歳のとき父が亡くなるが、医業を継がず詩人として身を立てる決意をする。同年、師の天水が33歳で死去し、中野素堂の紹介で山本北山の奚疑塾に入門する。

活動期

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25歳の時、市河寛斎が富山藩に仕官した後、江湖詩社に活気がなくなってくると、先輩の柏木如亭向島二痩社を開いた。詩仏の別号 痩梅、如亭が痩竹と号したことに因んだ命名である。この二痩社には百人を超える門人が集った。その後、自らの詩集啓蒙書などを活発に刊行する。また各地を遊歴し、文雅を好む地方の豪商などに寄食しながら詩を教え、書画の揮毫などで潤筆料を稼いだ。その足跡は東海道京都伊勢信州上州に及ぶ。

絶頂期

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文化3年(1806年)3月、39歳の時丙寅の火災と呼ばれる江戸の大火に罹災。家を焼失した詩仏は復興費用の捻出のため画家の釧雲泉信越地方に遊歴し、秋に帰ると神田お玉ヶ池に家を新築、詩聖堂(現 東京都千代田区岩本町2丁目付近)と称した。しだいに訪問客が増え、それにともなってこの詩聖堂に度重なる増築を加え、豪奢な構えとなっていく。文化7年正月、『詩聖堂詩集初編』を出版し、江戸詩壇の中で確固たる地位を築く。この頃、頼山陽などと交流する。

珍事

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文化13年(1816年)、書画番付騒動が起こり、これに巻き込まれる。これは当時の江戸の学者や文人達を相撲番付に見立てて格付けした「都下名流品題」という一枚刷を巡り、あちこちで格付けの不当が言い立てられ始めたことによる。東の関脇に詩仏が格付けされており、親友の菊池五山とともにこの戯れ事の黒幕と目されてしまった。大田錦城らと大きく悶着したが、後援者である伊勢国長島藩前藩主の増山雪斎の調停でなんとか治まった。真相ははっきりしないが詩仏の関与は濃厚と見られる。この後、詩仏は信越へ遊歴し、ほとぼりを冷ましている。

仕官

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地方に遊歴してもしだいに振るわなくなったことに焦りを感じたためか、詩仏は文政8年(1825年)、59歳にして秋田藩に出仕する。

佐竹氏重臣の一族出身だったことで上層部まで含め秋田の佐竹家中に遠縁の者がおり、それらのつながりから実現したものと思われる[2]

ほとんど拘束を受けない条件で江戸の藩校 日知館の教授として俸禄を給されたので生活そのものは変らなかった。

不運

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文政12年(1829年)は63歳になる詩仏にとって運の悪い年だった。3月の江戸の大火(己丑の大火)で詩聖堂を全焼し、秋田藩邸に仮住まいを余儀なくされた。下谷練塀小路に小宅を構えることは出来たが、二度と詩聖堂を復興することは出来なかった。ついでこの冬、二人の幼女を残して妻が先立つ。

晩年

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晩年の詩仏は江戸詩壇の泰斗として敬われ、交友も活発であったがかつての華やかさは次第に失われていった。肉体的にも衰えが目立ち、65歳で秋田に旅した帰路には脚気が悪化し養子の謙介に迎えに来てもらわねばならなかった。

天保8年2月(1837年)、自宅で没する。享年71。浅草松葉町光感寺に葬られる。後に藤沢市本町に改葬された。 その後、池上本門寺に再改葬されている。

人物像

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詩仏は穏やかで物事に頓着しない性格で少しも驕ることがなかった。また人付き合いがよく、酒を好んだこともあり、多くの文人墨客と交流し、当時の詩壇のアイドル的な人気を獲得した。

業績・評価

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市河寛斎、柏木如亭、菊池五山と並んで江戸の四詩家と称せられ、また、画家の清水天民、儒者の並河天民、詩人の大窪天民(別号)で三天民と評される。 蜀山人は「詩は詩仏、書は米庵狂歌俺、芸者小万に料理八百善」、「詩は詩仏、三味は芸者よ、歌は俺」などといって激賞した。

師の山本北山は、「詩仏は清新性霊の新詩風の中で育ち、古文辞格調派の毒に染まっていない」として大いに期待しエールを送っている。詩仏の詩は范成大楊万里陸游など南宋三大家の影響が強いといわれる。詩はいたずらに難解であるべきでなく平淡であることを貴しとし、清新であり機知に富んでいながら尚、わかりやすい詩をめざした。このように写実的な詩風を好んだため、特に詠物詩を得意とした。

書画

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七行絶句三行草書「残雪不消猶待伴」

孫過庭に影響され草書を能くした。また画については蘇軾に私淑し、墨竹図をもっとも得意とした。墨竹の四葉が対生する様は「詩仏の蜻蛉葉」と称され尊ばれ、多くの人から書画の揮毫を求められ、潤筆料を稼いだ。

蔵書印

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  • 詩聖堂図書記

刊行物一覧

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詩集

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  • 『卜居集』(寛政5年)
  • 『詩聖堂百絶』(寛政12年)
  • 『詩聖堂詩集初編』(文化7年)
  • 「詩仏百絶」(『今四家絶句』収録(文化12年))
  • 『西遊詩草』(文政2年)
  • 『北遊詩草』(文政5年)
  • 『再北遊詩草』(文政8年)
  • 『詩聖堂詩集二編』(文政11年)
  • 『二島遊草』(天保2年)
  • 『詩聖堂詩集三編』(天保9年)

啓蒙書

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  • 『詩聖堂詩話』(寛政11年)
  • 『放翁先生詩鈔』(享和元年)中野素堂、山本緑陰とともに校定
  • 『宋詩礎』(享和3年)
  • 『宋三大家絶句』(享和3年)山本緑陰と共編
  • 『石湖先生詩鈔』(文化元年)山本緑陰とともに校定
  • 『唐宋箋注聯珠詩格』(文化元年)
  • 『佩文韻府両韻便覧』(文化2年)山本緑陰とともに校定
  • 『方秋厓詩鈔』(文化2年)佐羽淡斎とともに校定
  • 『楊誠斎詩鈔』(文化4年)山田伯方らとともに校定、楊万里の詩集
  • 『詩学自在』(文化6年)
  • 『広三大家絶句』(文化9年)
  • 『清新詩題』(文政2年)
  • 『随園女弟子詩選』(天保元年)

戯作

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  • 『茶寮図賛』(享和3年)

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門弟

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交友

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子孫

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参考文献

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  • 揖斐高注解 『市河寛斎・大窪詩仏 江戸詩人選集5』(岩波書店、1990年、再版2001年)
  • 鈴木碧堂 『大窪詩仏』(1937年)
  • 三村竹清 「大窪詩仏の思ひ出」(『書苑』(1938年))
  • 今関天彭 「大窪詩仏」上・下(詩誌『雅友』1960年)-『江戸詩人評伝集1』に収録(揖斐高編、平凡社東洋文庫、2015年) 
  • 揖斐高 「詩仏年譜考——化政期文人の交遊考証 1-6」、(『国文白百合』、『成蹊国文』)
  • 清水礫洲 『ありやなしや』 彩雲閣、明治40年(1907年)

脚注

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  1. ^ この出自が後の秋田藩(久保田藩)佐竹家への出仕などにもつながっていると考えられる。
  2. ^ 江戸期の大名家は藩主とその妻子だけでなく相当数の家臣や商人なども江戸に来ていたため、 彼らを介するなどして故郷から遠く離れた縁者同士が近況確認やつながりを保つことが立場や環境によっては必ずしも難しくはなかった。 詩仏のような人物であればなおさらである。

関連項目

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