大田耕士
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大田耕士(おおた こうし、1909年2月18日 - 1998年3月8日[1])は日本の教育者、版画家。
人物
[編集]兵庫県に生まれ、小学校教員を務めながらプロレタリア美術、風刺漫画に取り組む。1938年5月、東京漫画研究所の機関誌として小野沢亘、松下井知夫、久米宏一らとともにリトグラフの風刺・風俗漫画雑誌『カリカレ』を創刊。1941年4月、大田が不穏思想の持主であるとして検挙されて廃刊となった[2]。
戦後は本名や変名で風刺漫画を投稿し、中国木刻の影響で盛り上がった1950年代の「戦後版画運動」に積極的に参加。1951年には平塚運一や恩地孝四郎らの協力を得て「日本教育版画協会」を設立し、学校教育に版画を広めていった。大田の編集する機関誌『はんが』はほぼ月刊で、日本中から送られた小中学校の版画文集を紹介する。1954年の第1回全国版画教育研究大会には300人の教師が参加した[3]。
アニメーターの園叡(園サトル、大田サトル)、アニメーターで宮崎駿の妻である大田朱美は、娘。
脚注
[編集]- ^ 20世紀日本人名事典
- ^ (南雲 2010, p. 6)
- ^ みんな、かつては版画家だった──教育版画運動と大田耕士旧蔵版画集から考える「私たち」の戦後美術史
参考文献
[編集]- 南雲大悟「日本占領区における漫画雑誌『北京漫画』について」『千葉大学人文社会科学研究科研究プロジェクト報告書』第207巻、千葉大学、2010年、44-58頁。