大田吉勝
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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死没 | 慶長13年2月3日(1608年3月19日) |
別名 | 甚四郎、善大夫 |
戒名 | 頓恵 |
墓所 | 妙安寺(群馬県前橋市) |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家康 |
父母 | 大田吉房 |
妻 | 大竹善左衛門の娘 |
子 | 吉胤、吉正、吉矩、正直、久家、文右衛門、正房、楠十郎兵衛室、宮崎重次室 |
大田 吉勝(おおた よしかつ)は、戦国時代から江戸時代初期の武将。徳川家康の家臣。
略歴
[編集]尾張水野氏との戦いである、石ヶ瀬の戦いや十八町畷の戦いで武功があった。永禄11年(1568年)掛川城攻めでは酒井重忠の推薦で火攻めを決行し、これを成功させている。元亀元年(1570年)姉川の戦いでは5つの首級をあげた。元亀3年(1572年)三方ヶ原の戦いでは遠江堀江城の加勢としてその本丸を守備し、武田軍が接近すると敵兵を矢で射倒した。その後、武田軍が三方ヶ原で徳川軍を粉砕したが、動揺せずに籠城を続けて後に家康に称された。その後も天正3年(1575年)長篠の戦い、小山城の戦い、天正6年(1578年)当目合戦など武田氏との戦いで武功を立てた。晩年は酒井氏に仕えた3男吉矩の元で過ごした。
参考文献
[編集]- 「寛政重修諸家譜」巻第857