大清皇帝功徳碑
大清皇帝功徳碑 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 대청황제공덕비 |
漢字: | 大淸皇帝功德碑 |
発音: | テチョンファンジェコンドクピ |
日本語読み: | だいしんこうていこうとくひ |
2000年式: MR式: 英語名: |
Daecheong hwangje gongdeok bi Taech'ŏng hwangche kongtŏk pi The stele to the merits and virtues of the Emperor of Great Qing |
大清皇帝功徳碑(だいしんこうていこうとくひ、満洲語: ᡩᠠᡞᠴᡞᠩ
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ᠪᡝᠢ 転写:daicing gurun-i enduringge han-i gung erdemui bei)は、大韓民国のソウル特別市松坡区三田渡に建立された石碑であり、建立地の名を取った三田渡碑(さんでんとひ、サムジョンドビ、삼전도비、Samjeondo-bi、Samjeondo Monument)とも呼ばれる。韓国では後述の経緯から「恥辱碑」とも言われる。大韓民国指定史跡第101号である。地下鉄の最寄り駅は蚕室駅である。
碑の満州語以外の名称は以下である。
- モンゴル語: Dayičing ulus-un Boɤda Qaɤan-u erdem bilig-i daɤurisɤaɤsan bei
- 中国語: Dàqīng huángdì gōngdé bēi(大清皇帝功德碑)
建立の経緯
[編集]李氏朝鮮は14世紀末の建国以来、明の朝貢国であったが、17世紀に入ると満洲(中国東北部)で女真族が建てた後金が勃興した。従来、李氏朝鮮は北方の女真族を力で抑えてきたが、外敵の侵入と内紛によって国力が衰退して、両者の力関係が逆転した。
1627年に後金が朝鮮へ侵攻するが、戦線が膠着したので、両者が兄弟関係を結ぶことで講和した。しかし朝鮮では古来から同国にも朝貢に来ていた女真族を北狄(オランケ/野蛮人)と蔑すむ考えが強く、とりわけ保守的な儒者は後金との決戦を唱え続けるなど、火種はくすぶっていた。
後金は1636年、ホンタイジが皇帝を称し、国号を清と変更すると、朝鮮に対して朝貢及び明への派兵を求めた。官僚派閥である北人の大北派の主張に沿って中立政策を取った前王の光海君と違い、華夷思想を重んじた西人に支持されて即位した仁祖にとって、永く朝貢を受ける相手であった女真族の要求は到底呑めるものではなかった。
仁祖が朝貢を拒絶し、清皇帝を認めないと公表すると、激怒したホンタイジはただちに朝鮮への親征を行った。清の圧倒的な兵力の前に各地で敗北を重ねた朝鮮軍は開戦後40日余りで降伏し、和議が持たれた。
講和内容は11項目に及び、清への朝貢と清からの冊封、明との断交、朝鮮王子を人質に差し出す、膨大な賠償金など屈辱的なものであった。そればかりか仁祖は三田渡で、ホンタイジに対し三跪九叩頭の礼(三度跪き、九度頭を地にこすりつける)をもって清皇帝を公認する誓いをさせられる恥辱を味わった。
ホンタイジは、自身の「徳」と仁祖の「過ち」、そして両者の盟約を示す碑文を満洲語・モンゴル語・漢語で石碑に刻ませ、1639年に降伏の地である三田渡に建立させた。これが「大清皇帝功徳碑」である。
和議の内容
[編集]- 朝鮮は清国に対し、臣としての礼を尽くすこと。
- 朝鮮は明の元号を廃し、明との交易を禁じ、明から送られた誥命と明から与えられた朝鮮王の印璽を清国へ引き渡すこと。
- 王の長男と次男、および大臣の子女を人質として送ること。
- 清国が明を征服する時には、求められた期日までに、遅滞なく援軍を派遣すること。
- 内外(清国)の諸臣と婚姻を結び、誼を固くすること。
- 城郭の増築や修理については、清国に事前に承諾を得ること。
- 清国皇帝の誕生日である聖節・正朔である正月一日・冬至と慶弔の使者は、明との旧例に従って送ること。
- 清国が鴨緑江の河口にある島を攻撃する時に、兵船五十隻を送ること。
- 清国からの逃亡者を隠してはいけない。
- 日本とは旧来通り、貿易を行うこと。
- 清国に対して黄金100両・白銀1000両と20余種の物品(20余種の物品とは具体的には、清国に朝鮮人美女、牛・馬・豚など各々3000などの物品のこと)を毎年上納すること。(出典:朝鮮王朝実録 仁祖録 仁祖十四年一月二十八日)
石碑
[編集]- 形状等
この碑文は、亀の背の台座(亀趺)の上に碑身があり上部は螭首である。高さ5.7m、幅1.4m、奥行3.95mで、大理石で作られている。現存のうち1碑は亀趺だけである。
前左側にモンゴル文、右側に満洲文、そして裏面に漢文が刻まれている。3つの言語による碑文の内容は完全に同一意味のものではなく、漢文には朝鮮王臣が文を撰じて刻んだことが記されてあり、満洲文では詳細な経緯も記述されている。
碑文
[編集]- 全文(漢文)
大清崇德元年冬十有二月、寛温仁聖皇帝、以壞和自我、始赫然怒、以武臨之、直擣而東、莫敢有抗者。 時我寡君棲于南漢、凛凛若、履春冰而待白日者、殆五旬。 東南諸道兵、相継崩潰、西北帥逗撓峽内、不能進一歩、城中食且盡。 當此之時、以大兵薄城、如霜風之卷秋蘀、爐火燎鴻毛。 而皇帝以不殺爲武、惟布德是先、乃降勅諭之曰、來朕全爾、否屠之有! 若英馬諸大將、承皇命相屬於道、於是我寡君、集文部諸臣、謂曰、予托和好于大邦、十年于茲矣、由予惛惑、自速天討、萬姓魚肉、罪在予一人。 皇帝猶不忍屠戮之、諭之如此、予曷敢不欽承、以上全我宗社、下保我生靈乎? 大臣協贊之、遂從數十騎、詣軍前請罪、皇帝乃優之以禮、拊之以恩、一見而推心腹、錫賚之恩、遍及從臣。 禮罷即、還我寡君于都城、立召兵之南下者、振旅而西、撫民勸農、遠近之、雉鳥散者、咸復厥居、詎非大幸歟!
小邦之獲罪上国久矣。 己未之役、都元帥姜弘立助兵明朝、兵敗被擒、太祖武皇帝、只留弘立等數人、餘悉放回、恩莫大焉。 而小邦迷不知悟、丁卯歳、今皇帝命將東征、本国君臣、避入海島、遣使請成。 皇帝允之、視爲兄弟国、疆土復完。 弘立亦還矣。 自茲以往、禮遇不替、冠盖交跡。 不幸浮議扇動、搆成亂梯、小邦申飭邊臣、言渉不遜、而其文爲使臣所得。皇帝猶寬貸之、不即加兵、乃先降明旨、諭以師期丁寧、反覆不翅、若提耳面命。 而終未免焉、則小邦君臣之罪、益無所逃矣。 皇帝既以大兵圍南漢、而又命偏師、先陷江都、宮嬪王子曁卿士家小、倶被俘獲、皇帝戒諸將不得擾害、令從官及内侍看護。 既而大霈恩典、小邦君臣及其被獲眷屬、復歸於舊、霜雪變爲陽春、枯旱轉爲時雨、區宇既亡而復存、宗社已絶而還續。 環東十數千里、咸囿於生成之澤、此實古昔簡策、所稀覯也。 於戯盛哉!
漢水上流三田渡之南、即皇帝駐蹕之所也、壇塲在焉。 我寡君爰命水部、就壇所增而高大之、又伐石以碑之、垂諸永久以彰、夫皇帝之功之德直與造化而同流也。 豈特我小邦世世而永賴抑? 亦大朝之仁聲武誼、無遠不服者、未始不基于茲也。 顧搴天地之大、畫日月之明、不足以彷彿其萬一。 謹載其大略銘曰。
天降霜露、載蕭載育、惟帝則之、竝布威德。 皇帝東征、十萬其師、殷殷轟轟、如虎如豼。 西蕃窮髪、曁夫北落、執殳前驅、厥靈赫赫。 皇帝孔仁、誕降恩言、十行昭回、既嚴且温。 始迷不知、自貽伊慼、帝有明命、如寐之覺。 我后祗服、相率而歸、匪惟怛威、惟德之依。 皇帝嘉之、澤洽禮優、載色載笑、爰束戈矛。 何以錫之? 駿馬輕裘、都人士女、乃歌乃謳。 我后言旋、皇帝之賜。 皇帝班師、活我赤子。 哀我蕩析、勸我穡事、金甌依舊、翠壇維新。 枯骨再肉、寒荄復春、有石巍然。 大江之頭、萬載三韓、皇帝之休!
嘉善大夫禮曹參判兼同知義禁府事、臣呂爾徴、奉敎篆。
資憲大夫漢城府判尹、臣呉竣、奉敎書。
資憲大夫吏曹判書兼弘文館大提學藝文館大提學知成均館事、臣李景奭、奉敎撰。
崇德四年十二月初八日立。
解析
[編集]大清国 崇徳元年冬12月、寛温仁聖皇帝は我国が和親を破棄したために大いに怒り、慰撫で臨んですぐに征伐に乗り出して東方へ向かうと、誰もあえて抵抗する者が無かった。その時、我々の不足な国王は南漢山城へ避難していながら、春の氷を踏んで、明るい日影を待つように恐れてから50日もなった。東南諸道の兵士らが相次いで崩壊し、西北の兵士らは山奥で立たち往生したまま、一歩も出てこず、城内には食糧が底をつこうとした。この時を迎え大兵が城に着くと霜風が秋の落ち葉を吹きつけるように、火鉢の火が雁の毛を燃やすようだった。しかし皇帝は殺さないことで慰撫を立て徳を伸ばすことを先にした。ここに勅諭を下しておっしゃるに「朕のところに来りなばお前を保全してくれるだろうが、そうでなければ殺す!」と警告なさった。
それからイングルダイ(英俄爾岱)とマフタ(馬福塔)のような大将たちが皇帝の命を受け、相次いで道に続いた。これに、国王は文武諸臣を集めておいて、いわく「私が大国に友好を見せたのがもう10年もなった。私が愚かで迷い、天子の討伐を自ら招いて万民が魚肉になったのだから、その罪は私の一身にある。皇帝がどうしても屠戮できず、このように言い聞かせるのに、私が如何して敢えてこれを奉じて、上は宗廟と社稷を保全し、下は生霊を保護してくれないか?」と言った。大臣たちが賛成し、やがて騎兵数十人を連れて軍門へ進み罪を請った。皇帝がこれに礼を尽くして優遇し、恩沢として慰めた。一度見て心通じて物品を下賜する恩典が付いて行った臣下にまで行き届いた。礼が終わるとすぐに我々の不足な国王を都城に戻らせ、すぐに南に下った兵士たちを召還し、軍隊を整頓して西へ帰国なさった。民をなで下ろして農業を奨励すると、鳥のように散らばっていた遠くて近い所の民がみんな住んでいた所に戻った。何と大きな幸いではなかろうか?!
小国が上国に罪を得てから久しい。己未年の戦役に都元帥姜弘立が明朝を救援に行ったが敗れて捕らえられた。しかし、太祖武皇帝は姜弘立ら数人だけを抑留し、残りはすべて帰したので、それよりも大きな恩沢はなかった。それなのに我国は迷って悟ることを知らなかった。丁卯年、現皇帝が将帥に命じ、東方を征伐させたのに、我国の君臣らがみんな海島へ入って逃避しながら、使臣を送って和親を求めた。皇帝がそれを允許して兄弟の国になり、疆土が再び完全にできた。姜弘立も戻ってきた。それから礼遇することが変わりなく、使臣が互いに往来した。不幸にも軽薄な議論に煽動されて乱の種ができ、小国が辺境の臣下たちに強く警戒する話が非常に不遜だったが、その文章を上国の使臣が獲得して持って帰った。
それでも皇帝は寛大に接してすぐに軍隊を送らず、まず明るい聖旨を下して軍隊を起こすことを期しながら、改めて悟ることを耳をつまんで顔を合わせるようにおっしゃった。それでもついには災禍を免れることができなかったので、小国の君臣が犯した罪が避けられなく重くなった。皇帝が既に大軍として南漢山城を包囲し、また一方の軍隊に命じて江都を先に陥落させると、妃嬪と王子および士族の家族らがすべて捕らわれた。皇帝は諸将を取り締まって騒ぎ立てたり、被害を与えないようにし、扈従していた官吏と宦官たちをして面倒を見させた。やがて大きな恩典に恵まれ、小国の君臣と捕まった眷属たちが以前と同様に戻ってきた。雪と霜が降っていた冬が変わり暖かい春になり、万物がしおれていた日照りが変わり季節ごとに雨が降るようになった。全国土が滅びてから再び保存され、宗廟と社稷は途絶えてから再び続くことになった。東国の領土数千里がすべて再び蘇らせる恩沢を受けることになったので、これは昔の書冊でも稀に見られるところだ。ああ、盛大だなあ!
漢水上流の三田渡の南側はつまり皇帝が到着した場所で、壇場がある。我々の不足な国王が水部に命じ、壇を大きく増築して高め、また石を削って碑を建て、永遠に残すことで皇帝の功徳が本当に天地の万物とともに流れを表わした。どうしてわが小国だけが代々に永遠に信じて生きていくだけだろうか? また、大国の慈しみ深い名声と威厳に満ちた行いをもって、いくら遠くにいてもみな服従しない者がいないことがここから始まるだろう。振り返って見ると天地の大きさを模して、太陽と月の明るさを描こうとしてみてもそれの万分の一にも比べられない。謹んでその大略のみを記す。
天は霜と露を降らして殺したりもして、生かしたりもする。ただ皇帝だけがそれを見習って威厳と恩沢を並べて広げた。皇帝が東方へ征伐すると、その軍勢が10万であり、鳴き声が虎や豹のようだった。西の辺境の不毛地と北の部落の人々も槍を持って走り出すと、その威勢が実に輝いた。皇帝が極めて慈しみ深いお言葉を賜ると、十行の明るい回答が厳粛しながらも温かかった。当初、愚かなので気付かなかった故に災禍を自ら招いたが、皇帝の明るい命令があってからはまるで眠りから覚めたようだった。我々の国王が恭しく服従し、互いに率いて帰順した。威厳を恐れただけでなく、徳に帰依したのだ。皇帝が立派に思って、恩沢を充満に礼遇してくれださり、表情を直して笑いながら矛と盾を納めなさった。何をくださったのか? 駿馬と軽い肌着だ。都城の男女が歌を歌って誉めたたえ、我々の国王が戻ってくるようになったのは皇帝が恩沢を施してくださったおかげだ。皇帝が軍隊を返したので我国の臣民が生存することができた。ばらばらに散らばった臣民を哀れみ、農業を勧奨なさった。国家が以前と同様に保全され、青い壇もすべて新しく改められた。やせこけた骨に再び肉が付き、凍りついた根が春を取り戻した。そびえ立つ石碑を大きな川辺に建てたから、三韓で万歳にわたって皇帝の徳が輝くだろう!
嘉善大夫・礼曹参判兼同知義禁府事、臣 呂爾徴、命を奉じて石碑を彫る。
資憲大夫・漢城府判尹、臣 呉竣、命を奉じて書す。
資憲大夫・吏曹判書兼弘文館大提学・藝文館大提学・知成均館事、臣 李景奭、命を奉じて本文を撰述する。
崇徳4年12月8日(1639年12月31日)、立てる。
大意
[編集]- 愚かな朝鮮王は、偉大な清国皇帝に逆らった。
- 清国皇帝は愚かな朝鮮王をたしなめ、己の大罪を諭してやった。
- 良心に目覚めた朝鮮王は自分の愚かさを猛省し、偉大な清国皇帝の臣下になることを誓った。
- 我が朝鮮はこの清国皇帝の功徳を永遠に忘れず、また清国に逆らった愚かな罪を反省するために、この石碑を建てることにする。
その後の石碑
[編集]その後、日清戦争で日本が勝利し、1895年の下関条約で、清の冊封体制より李氏朝鮮が離脱したのを機に、「屈辱碑」とされていた同碑は迎恩門と同時期に倒され、そのまま放置された。しかし日韓併合後の1916年、朝鮮総督府による文化財の調査・保存過程で引き上げられ、1935年4月には宝物第164号に指定された。光復後の1956年、韓国内の宝物らを国宝に昇格させる過程で国宝の指定が除外され、「恥さらしだ」との理由で李承晩政権の指示により再び碑を抜いて地下に埋めてしまった。1960年、漢江の洪水により土砂が流失され、埋めた石碑が地上に露出すると、1963年に史跡第101号に指定されて復元した。1980年7月、ソウル特別市松坡区石村洞 289-3(北緯37度30分11.92秒 東経127度06分25.44秒 / 北緯37.5033111度 東経127.1070667度)に移され、名称を従来の大清皇帝功徳碑から三田渡碑に改称しており、1983年には史跡公園を造成して一般に公開した。「朝鮮の屈辱の象徴」として、移転の願いなどがされた[1][2][3]。
2007年2月3日午後9時40分頃に、赤い字で「철」(撤)「거」(去)「병자」(丙子)「370」(丙子の役から370年という意味)と落書きされ、同27日に当時39歳だったペク容疑者が逮捕された。ペクは1月にも甲午農民戦争の原因となった古阜郡守の趙秉甲の碑も破壊していた。政治家が誤れば恥辱の歴史を繰り返すと警告しようとした[4]、為政者たちが見て学ぶように青瓦台に移転しなければならない、と主張した。ペク容疑者には懲役1年6カ月、執行猶予2年が言い渡された(その後、2013年には盧泰愚元大統領、2016年には朴正煕元大統領の生家にも放火し逮捕されている[5])。6月15日に碑の修復が完成した[6]。
2008年、この石碑は、原位置の考証を行い、ロッテワールドのビルの裏手、松坡区蚕室洞47番地の石村湖水西湖の北東側にある緑地帯(北緯37度30分38秒 東経127度6分6秒 / 北緯37.51056度 東経127.10167度座標: 北緯37度30分38秒 東経127度6分6秒 / 北緯37.51056度 東経127.10167度)へ移されることが文化財庁により決定された[7]。保護閣の設置などの工事が終わると、石碑は2010年3月に石村湖畔の現位置に移転された。一方、石碑の横に建てられていた仁祖が降伏する光景(ホンタイジの前において土下座している描写)の銅板は、1983年に史跡公園を造成した当時作られたもので、文化財的な価値はないとの理由により、文化財委員会の判断に基づき撤去されることとなった[8]。
石碑の評価
[編集]崔基鎬は、「1895年に日本が日清戦争に勝つと、李氏朝鮮は清国の属国としての桎梏をのがれて、独立国となることができた。国号が清国と対等な国として大韓帝国に改められ、第26代の高宗王が、中華圏における中国皇帝の臣下を意味する国王の称号を廃して、はじめて皇帝を称した。大清皇帝功徳碑は、1895年に、あまりにも恥辱であるとして、川の中に投げ込まれた。もっとも、この碑は日韓併合後に、川底から掘り出されて、史碑として同じ場所に建立された。1897年には、ソウルの西大門の近くにあった迎恩門が破壊されて、その場所に独立を記念する西洋式の独立門が建立された。迎恩門は、李朝を通じて、明、あるいは清の皇帝の勅使がソウルを訪れたときに、朝鮮国王がそこまで迎え出て、勅使に対して九回叩頭する礼を行なう場所だった。今日、独立門は韓国の史蹟32号に指定されている。しかし、今日の韓国民のうち、いったい何人が、そこに韓民族にとって、はかりしれない災禍をもたらした象徴である迎恩門が建っていたことを、知っているだろうか。日本にはその歴史を通じて、大清皇帝功徳碑も迎恩門もなかった。私たちから見ると、何と羨ましいことだろうか。かつて李氏朝鮮は中国への卑屈な服従関係と、不正腐敗を覆い隠す名分として、慕華思想という言葉を用いた。誇りを失った李氏朝鮮の末路は、亡国しかなかった」と評した[9]。
脚注
[編集]- ^ “中国に仕返し? 三田渡碑にスプレーで落書き”. 朝鮮日報. (2007年2月8日). オリジナルの2008年4月15日時点におけるアーカイブ。
- ^ “「屈辱の石碑」の移転を願う周辺住民(上)”. 朝鮮日報. (2007年7月22日). オリジナルの2008年4月15日時点におけるアーカイブ。
- ^ “「屈辱の石碑」の移転を願う周辺住民(下)”. 朝鮮日報. (2007年7月22日). オリジナルの2008年4月15日時点におけるアーカイブ。
- ^ “삼전도비 훼손 30대 검거 “정치인 잘못 경고하려””. 京郷新聞. (2007年2月27日). オリジナルの2021年11月26日時点におけるアーカイブ。
- ^ “朴正煕氏生家に放火の男、盧泰愚氏の生家にも放火していた”. 朝鮮日報. (2016年12月1日) 2024年9月16日閲覧。
- ^ “삼전도비 복원을 바라보며”. ソウル東部新聞. (2007年6月20日). オリジナルの2015年6月2日時点におけるアーカイブ。
- ^ 松坡区文化体育課
- ^ “「屈辱の象徴」三田渡碑の移転決定”. 朝鮮日報. (2008年6月15日). オリジナルの2008年10月5日時点におけるアーカイブ。
- ^ 崔基鎬『韓国 堕落の2000年史』祥伝社〈祥伝社黄金文庫〉、2006年6月1日、201頁。ISBN 4396314078。
参考文献
[編集]- 鴛淵一『<研究>清初に於ける清鮮關係と三田渡の碑文 (上)』史学研究会〈史林 13(1)〉、1928年1月1日 。
- 鴛淵一『<研究>清初に於ける清鮮關係と三田渡の碑文 (下)』史学研究会〈史林 13(2)〉、1928年4月1日 。
- 鴛淵一『<研究>清初に於ける清鮮關係と三田渡の碑文 (下の一)』史学研究会〈史林 13(3)〉、1928年7月1日 。
- 鴛淵一『<研究>淸初に於ける清鮮關係と三田渡の碑文 (下の二)』史学研究会〈史林 13(4)〉、1928年10月1日 。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 写真
- 三田渡碑 - 青邱古蹟集真
- 三田渡碑 または大清皇帝功徳碑 - 「韓国古代山城探検!」
- 碑文
- 満洲語、モンゴル語、漢文
- 大清皇帝功徳碑(漢文からの日本語要約)