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大江通直

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大江 通直
時代 平安時代
生誕 天暦7年(953年)?
死没 長元2年5月20日1029年7月4日
官位 従四位上大学頭
主君 一条天皇三条天皇後一条天皇
氏族 大江朝臣
父母 父:大江澄江
兄弟 為清
朝通、佐国
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大江 通直(おおえ の みちなお、天暦7年(953年)? - 長元2年5月20日1029年7月4日))は平安時代中期の官人、学者、文人。参議大江朝綱の孫。官位は従四位上大学頭。『本朝麗藻』に漢詩が載る[1]

経歴

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学者として、文章博士式部権大輔大学頭を歴任した。

長和4年(1015年)10月17日、皇太后宮での作文会で序を作った[2]。同年12月4日、敦良親王(後朱雀天皇)の読書始後の作文会で題を献じた。題は「先朝の第三皇子の『御注孝経』を読むを聴く」であった[3][4]

寛仁元年(1017年)8月、一代一度仁王会の呪願を作成した。呪願の趣きは天慶10年(947年)の祖父・大江朝綱の前例によるべしとされたものの、藤原実資が天慶の如しとみなした2箇所について、藤原道長藤原頼通から書き直しを命じられた[5][6]

万寿2年(1025年)2月6日、春日祭使・藤原能信に陪従した文章博士の慶滋為政大江挙周の服装について、為政が宿装束、挙周が衣に半靴だったことを「太だ軽々たり」と批判した[7]

治安2年(1022年)5月19日、省試の題者となるも、病気を理由に参朝しなかった。この時の題「養民在恵」は、藤原広業が出題したものだったが、広業は、先月が母の一周忌であり、今月は軽服だから憚られるといって、出仕しなかった。しかしながら、の軽服は12ヶ月が限度であると実資が指摘している。また、通直も「題者は二人であるべきだが、広業が承引しない」と主張しており、通直が参朝しない理由はこれではないかと推測されている。結局この日の省試は停止となり、後日、広業を題者として行えとする宣旨が下った。なお、通直が式部省の門に来たとか、関白・頼通のもとに来たという話を後に実資は訊いている[7]

長元2年(1029年)5月20日、卒去[8]。77歳か[9]

元号の勘申

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通直は寛弘9年・長和元年(1012年)[10]、長和6年・寛仁元年(1017年)[11]万寿5年・長元元年(1028年)[12]の3回に渡り新元号を勘申している。

このうち、長和元年の改元では藤原道長は「『寛仁』を勘申せよ」と通直ともう一人の文章博士・菅原宣義に度々言ったものの、二人は出典が見つけられないとして、その勘申を拒んだ。しかしながら、「寛仁」は長保6年・寛弘元年(1004年)の際に、大江匡衡が勘申したが、「仁」が一条天皇の(懐)にあるため避けるべきとされていた元号だった[13]。道長から相談された際、藤原実資も『漢書』から「寛仁愛人、意翻如也。」の出典を即答しており、「出典が見つけられない」は苦しい言い訳といえる[14][15]

寛仁元年の際にも、道長は「寛仁」に執着したが、通直と宣義は「寛仁」を勘申しなかった。2月21日、右大臣藤原顕光から二人の勘文を見せられた道長は「不快である。変えさせるべきだ」と命じたが[16]、4月23日の改元定でも、二人が「寛仁」を勘申することはなかった[15]。一方で、藤原広業は「寛仁」を勘申し、藤原顕光も一条天皇の諱に「仁」が有るといえども、一文字だけなら避けるべきものではないと主張し、新元号は寛仁に決まった[17][11]

通直らが、かたくなに「寛仁」を勘申しなかった理由について、今浜(1987)は、人が玄宗の諱(基)を避けて「」を「永」といった故事にならったのではないかとしている[18]

長元元年には、通直は「玄通」を勘申している[19]

官歴

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系譜

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『尊卑分脈』による

脚注

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  1. ^ 本間(2003), pp.224-225
  2. ^ 『御堂関白記』
  3. ^ 『小右記』、『御堂関白記』
  4. ^ 今浜(1987), p.95
  5. ^ 『小右記』寛仁元年8月25, 27, 28日
  6. ^ 今浜(1987), p.95-97
  7. ^ a b 『小右記』
  8. ^ a b 『小記目録』
  9. ^ 本間(2003), p.225
  10. ^ 『小右記』長和元年12月25日、『権記』同日
  11. ^ a b 『権記』寛仁元年4月23日、『左経記』同日
  12. ^ 『小右記』長元元年7月12, 13, 19, 25日、『左経記』同年4月23日、7月19, 23日
  13. ^ 『御堂関白記』寛弘元年7月20日、『権記』同日
  14. ^ 『小右記』長和元年12月25日
  15. ^ a b 今浜(1987), pp.89-90
  16. ^ 『御堂関白記』寛仁元年2月21日
  17. ^ 今浜(1987), pp.92-93
  18. ^ 今浜(1987), p.94
  19. ^ 『小右記』長元元年7月12, 25日、『左経記』長元元年7月23日
  20. ^ 『権記』長和元年12月25日、『小右記』寛仁2年12月29日など
  21. ^ 『小右記』長和4年12月4日
  22. ^ 『小記目録』寛仁4年閏12月27日、治安2年5月19日など
  23. ^ 『小記目録』治安2年7月27日など
  24. ^ 『尊卑分脈』
  25. ^ 『小右記』寛弘8年3月9日、『権記』寛弘8年3月29日
  26. ^ 『小右記』長和元年7月8日、『御堂関白記』長和2年8月5日など

参考文献

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関連項目

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