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大江戸百貨店

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1930年代尖塔形状塔屋がある中央建物は丸越江戸っ子呉服店(大江戸百貨店)豊原本店。新古典主義様式である白色の右側建物(左端部分のみ)は北海道拓殖銀行豊原支店(現サハリン州立美術館)

大江戸百貨店(おおえどひゃっかてん)は、樺太庁豊原市(現ユジノサハリンスク)にあった百貨店。正式な名称は「丸越江戸っ子呉服店豊原本店」。

後に「豊原三越百貨店」(現サハリンデパートユジノサハリンスク本店[1])、および日本国籍帰化した白系ロシア人が起業した「ウラジロミフカ百貨店豊原本店」が開店するまで、樺太唯一の百貨店だった。

概要

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愛知県一宮市出身の寺澤代三郎が開業[2]。店舗建物は1925年大正14年)に「越澤呉服店」として竣工。設計者は豊原市公会堂[3]の設計も手掛けた後藤種助説が有力。

場所は豊原大通り(現レーニナ通り)および南二丁目通り(現クリーリスカヤ通り)が交差する南西側角地区画で、南方に隣接する区画には、平屋建ての個人商店を数軒挟んだ形で北海道拓殖銀行豊原支店(現サハリン州立美術館)が立地していた。

外観はロココ建築様式に近く、鉄筋コンクリート3階建てで屋上にドーム型尖塔屋と屋外展望台があり、旧南樺太のみならず樺太全体でも最大の高層建築物であった。後[いつ?]に後継者が京呉服と日本人形に特化する形で事業を縮小し、店名はそのまま豊原大通南一丁目へ移転した。

初代店舗建物の主なフロア構成

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フロア概要
4階(ドーム型尖塔屋)・屋上 屋外展望台
3階
2階
1階

初代店舗建物のその後

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昭和恐慌世界恐慌の影響を受けて閉店後、初代店舗建物は戦中に(特徴だったドーム型尖塔屋を撤去し)樺太庁警察部豊原警察署として再利用されていた。

旧ソ連により接収後、海産物缶詰専門の大手国営チェーン「アキェアーン(ロシア語表記:Океан。「海洋」のロシア語訳)」ユジノサハリンスク支店(初代)建物として1976年(昭和51年)頃まで再利用され続けた。(アキェアーン ユジノサハリンスク歴代支店写真集 画像HP(Старый Сахалин))、(1968年に撮影された空撮画像(右端の上下中央に「北海道拓殖銀行豊原支店(現サハリン州立美術館)」。間に植樹された公園(豊原市時代は平屋建て個人商店建物群)を挟み、ドーム型尖塔屋撤去後の黒っぽい建物が丸越江戸っ子呉服店豊原本店)))

1977年(昭和52年)、現在の二階建て建物に全面建て替えし、ペレストロイカ政策に伴い企業活動の規制緩和が進んでいた1997年(平成9年)、民営化された[4]

現在は大手ショッピングモール化も進み、地階にはユジノサハリンスク市内大手のDVDショップチェーン店も入居。

丸越江戸っ子呉服店(大江戸百貨店)豊原本店(初代店舗)跡地には前述した「アキェアーン ユジノサハリンスク支店(二代目店舗)」の他に「ロシア民間防衛問題・非常事態・自然災害復旧省極東地域センター・ユジノサハリンスク支部」が立地している。グーグル・ストリートビュー画像

脚注

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外部リンク

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  • 江戸っ子百貨店(archive.today) - 店舗建物画像あり。
  • Южно-Сахалинск в 1950-х годах - 終戦から5年後の豊原市内定点観測ロシア人撮影カラー画像集HP。豊原警察署(戦中)建物(丸越江戸っ子呉服店豊原本店建物(初代)時代、屋上にあったドーム型尖塔屋は撤去されている)や北海道拓殖銀行豊原支店(現サハリン州立美術館)建物が並ぶ豊原大通り(上から4枚目~15枚目)や「御大典記念豊原市民公園(現ガガーリン記念文化公園)」など。
  • History of city Yuzhno-Sakhalinsk (Toyohara), Sakhalin Oblast in photos - 欧米人による有りき日の豊原市内撮影画像集HP。カラー着色加工された(旧丸越江戸っ子呉服店(初代建物)や北海道拓殖銀行豊原支店(現サハリン州立美術館)も並ぶ)豊原大通り(現レーニナ通り)等も公開。