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大橋理祐

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大橋 理祐(おおはし りすけ、1899年明治32年)10月[1][2][3] - 1954年昭和29年)4月4日[1])は、大正から昭和前期の実業家政治家貴族院多額納税者議員。旧名・理三[4]

経歴

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京都府[1]京都市で西陣織物業・大橋理八[注釈 1]の二男として生まれる[3][注釈 2]同志社大学経済科で学んだ[1][2][3][4]。1925年(大正14年)家督を相続し理祐に改名した[3][4]

1923年(大正12年)陸軍歩兵少尉に任官し同中尉に昇進[1][2]。退役後、家業の西陣織物業を営む[3][4]。1930年(昭和5年)洋服部蝶屋商会を創業[4]。その他、京都商工会議所副会頭、西陣織物工業組合理事長、全日本絹織物工業組合連合会理事、綾部製作所社長、(株) 三星取締役、京和商事取締役などを務めた[1][2][3][4]

日中戦争に出征し、留守第16師団副官、同司令部附、参謀本部調査事務嘱託などを務めた[2]。以後、帝国在郷軍人会室町学区分会長、同上京区連合分会副長、同第16師管連合支部幹事、同連合分会副長及び分会長、同連合会長、同本部審議員、同京都師管連合支部副長などを務めた[2][4]

その他、銃後奉公会副会長、国防協会理事、京都日伊協会理事、人絹絹統制会評議員、大日本防空協会京都府支部評議員、軍人援護会京都府支部評議員、大政翼賛会京都府支部常務委員、翼賛壮年団長、大日本婦人会京都府支部顧問なども務めた[2][3]。1942年(昭和17年)京都府多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され[5]、同年9月25日に就任し[6]研究会に所属して1946年(昭和21年)2月28日まで1期在任した[7][8]。その後、公職追放となった[9]

親族

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  • 母 大橋きぬ(祖父・大橋理右衛門長女)[3][4]

脚注

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注釈

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  1. ^ 京都府・小島権兵衛の三男として生まれ、本家・大橋理兵衛方に奉公し、同家の女婿となり1895年(明治28年)に分家した。『財界フースヒー』3版、オ44頁。
  2. ^ 『財界フースヒー』3版、オ44頁では長男。

出典

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  1. ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』191-192頁。
  2. ^ a b c d e f g 『貴族院要覧(丙)』昭和17年12月増訂、253頁。
  3. ^ a b c d e f g h 『人事興信録 第14版 上』オ150頁。
  4. ^ a b c d e f g h 『財界フースヒー』3版、オ44頁。
  5. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、51頁。
  6. ^ 『官報』第4715号、昭和17年9月26日。
  7. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、54頁。
  8. ^ 『官報』第5738号、昭和21年3月2日。
  9. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、一般該当者名簿466頁。公職追放の該当事項は「翼壮団長」。

参考文献

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  • 中西利八編『財界フースヒー』3版、通俗経済社、1931年。
  • 貴族院事務局編『貴族院要覧(丙)』昭和17年12月増訂、貴族院事務局、1942年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年。
  • 貴族院事務局編『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。