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大島貞恭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大島 貞恭(おおしま さだゆき、1842年10月20日(天保13年9月17日[1]) - 1898年明治31年)3月31日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。幼名・恭次郎[1]

経歴

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但馬国(現在の兵庫県 [1])出身[注 1]。兵学者・兵学侍講御用掛、大島貞薫の二男として生まれる[1]。明治元年5月(1868年6月-7月)、兵学校方助役に就任[1]。以後、三等教授、大阪兵学家御用掛、兵学少助教、兵学中助教、兵学少教授を経て、1875年(明治8年)1月、陸軍士官学校御用兼勤となる[1]。陸士教官を経て、同年9月、陸軍省参謀局第4課勤務(七等出仕)となる[1]。1877年(明治10年)1月、同課長心得に就任し、同年4月、陸軍少佐に任官[1]。同月、第4課長に就任し、征討軍団付となり西南戦争に出征した[1]

1878年(明治11年)12月、参謀本部編纂課長に就任し、同管東局員に転じて、1882年(明治15年)2月、陸軍中佐に昇進[1]。1883年(明治16年)2月、参謀本部電信課長に就任し、兼陸大教授、陸大教授専任、陸大教官を務め、1887年(明治20年)11月、陸軍大佐に昇進した[1][3]

1889年(明治22年)3月から1890年(明治23年)10月までドイツに留学した[1]。1893年(明治26年)12月に休職し、1894年(明治27年)8月、留守歩兵第2旅団長として復帰[1][2][3]。1895年(明治28年)6月に休職し、1896年(明治29年)1月、陸軍少将に進級と同時に予備役に編入された[1][2][3]。同年4月、後備役となった[1]

栄典

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脚注

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注釈

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  1. ^ 『日本陸軍将官辞典』147頁、『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』26頁では東京。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『日本陸海軍総合事典』第2版、36頁。
  2. ^ a b c 『日本陸軍将官辞典』147頁。
  3. ^ a b c 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』26頁。
  4. ^ 『官報』第736号「賞勲」1885年12月12日。
  5. ^ 『官報』第4185号「叙任及辞令」1897年6月16日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。