児島稔
こじま みのる 児島 稔 | |
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生誕 |
大野(大伴)鶴五郎 安政2年6月20日(1855年8月2日) 土佐国吾川郡名野川村(高知県吾川郡仁淀川町名野川) |
死没 |
1921年(大正10年)9月17日 高知県土佐郡小高坂村(高知市小高坂越前町) |
国籍 | 日本 |
別名 | KO生(変名) |
時代 | 明治時代 |
雇用者 | 高知新聞 |
代表作 | 『自由民権運動史』、『無形伯』 |
影響を受けたもの | 板垣退助 |
政党 | 南嶽社、嶽洋社 |
運動・動向 | 自由民権運動 |
罪名 | 不応為罪(新律綱領)、紙幣偽造予備罪(旧刑法) |
刑罰 | 禁獄30日・除族、重禁錮4年6月 |
配偶者 | 小島寅、湯川留以 |
親 | 大伴大作・安、小島喜左衛門・藤 |
親戚 | 坂本南海男(養女の夫) |
児島 稔(こじま みのる、安政2年6月20日(1855年8月2日) - 1921年(大正10年)9月17日)は高知県の自由民権運動家。南嶽社、嶽洋社員、『高知新聞』客員、高松文武講習所主幹。酒屋会議、5円紙幣偽造事件に関与し、2度入獄した。
生涯
[編集]生い立ち
[編集]安政2年(1855年)6月20日土佐国吾川郡名野川村(高知県吾川郡仁淀川町名野川)に[1]土佐藩士大野(大伴[1])大作の長男または次男として生まれ[2]、土佐郡小高坂村(高知市小高坂越前町)に移った[1]。幼名は鶴五郎[2]。漢字の変更(読みは同じ)含め、生涯で6度名を変えた[3]。
明治4年(1871年)頃県御雇教師ハロルド・E・レーネルに英語を学んだ[4]。明治5年(1872年)以前小島喜左衛門の養子となり[2]、築屋敷に移った[5]。
上京して司法省明法寮に入学し、中退して三菱会社に入ったともされるが、疑わしい[6]。
政治活動
[編集]在京中征韓論や自由民権運動に共鳴し、1874年(明治7年)板垣退助が愛国公党を結成して帰郷すると、これを追って帰郷し、地方政社南嶽社結成に参加した[7]。1878年(明治11年)9月愛国公党再興大会に出席し、12月南洋社と合併して嶽洋社となってからも社を主導し、1880年(明治13年)国会期成同盟の国会開設請願書に署名し、立志社の私擬憲法審議に参加した[8]。
同年坂本南海男と「島坂稔男」の変名で土佐郡上街町会規則に婦人参政権を盛り込む運動を行い、実現した[9]。1881年(明治14年)8月『高知新聞』客員となった[10]。
1881年(明治14年)10月東京で自由党創立大会に参加した。植木枝盛と共に酒税軽減運動を行い、酒屋会議開催を呼びかける檄文を配布したところ、12月3日新律綱領不応為条により禁獄30日、士族除籍を言い渡され[11]、入獄した[12]。
1883年(明治16年)春片岡健吉・伊藤常二と中国地方を遊説した後、高松文武講習所主幹となった[13]。
紙幣偽造
[編集]1883年(明治16年)朝鮮開化派の支援運動に参加し、1885年(明治18年)11月発覚した大阪事件では紙幣偽造計画に関わったとされるが、逮捕されるには至らず、直接関与したかどうか不明[14]。
1886年(明治19年)11月政治体制変革を志し、大阪市東区平野町二丁目借屋で速見市次郎等と5円紙幣偽造を試みたが、上手く造れず断念した[15]。
1888年(明治21年)1月大阪苦楽部創立に参加し、『東雲新聞』を発行した[13]。同年5月7日小島家と離縁して大伴稔となり[2]、1890年(明治23年)3月13日分家を起こし、16日大伴直念と改名した[15]。
その後、偽造計画は1円紙幣、山陽鉄道株券へと対象を変え、実行に移された。1890年(明治23年)7月25日事件が発覚すると、大伴直念は5円偽造予備・1円偽造予備幇助で起訴され、1894年(明治27年)3月2日5円偽造予備について重禁錮4年6月、監視1年を言い渡された[16]。
1897年(明治30年)1月31日英照皇太后崩御の大赦で刑期を短縮され、7月2日出獄すると[17]、8月25日大伴分家を廃し、9月13日名野川村森山の絶家大島家を継ぐ形で、22日大島更造と改名した[18]。
晩年
[編集]帰郷後、『土陽新聞』にKO生(大島更造のイニシャル)の変名で「土陽新聞小歴史」を連載し[19]、土佐史壇会でも活動したが、政治活動からは身を引き、1921年(大正10年)9月17日午前2時30分小高坂村の自宅で病没した[20]。
著書
[編集]家族
[編集]- 父:大野大作 – 土佐藩士。
- 母:安 - 土佐藩士森岡俊三郎姉[2]。
- 姉:丑(うし) - 弘化4年(1847年)生[5]。小野八三兵衛次男禎作を婿養子に迎えた[2]。
- 妹:忠(ただ) - 安政7年(1860年)生[5]。
- 養父:小島喜左衛門
- 養母:藤 - 天保5年(1834年)10月8日生。土佐藩士島田孫四郎長女[5]。
- 先妻:寅 - 万延元年(1860年)7月17日生。小島喜左衛門長女[23]。1888年(明治21年)5月7日離縁した[12]。
- 後妻:留以 - 和歌山市南汀丁湯川佐平長女。1897年(明治30年)12月16日結婚したが、1904年(明治37年)8月6日協議離婚した[24]。
- 養女:鶴井 - 坂本南海男義妹・妻[25]。
脚注
[編集]- ^ a b c 寺崎 1981, pp. 50–51.
- ^ a b c d e f 外崎 1974, p. 114.
- ^ 寺崎修「自由民権運動史上における児島稔」『駒大政治学論集』第14号、駒沢大学、1981年9月。
- ^ 寺崎 1981, p. 53.
- ^ a b c d 寺崎 1981, p. 51.
- ^ 寺崎 1981, pp. 53–54.
- ^ 寺崎 1981, pp. 54–57.
- ^ 寺崎 1981, pp. 60–65.
- ^ 外崎 1974, pp. 122–130.
- ^ 寺崎 1981, p. 66.
- ^ 寺崎 1981, pp. 68–70.
- ^ a b 外崎 1982, p. 102.
- ^ a b 外崎 1974, p. 118.
- ^ 寺崎 1981, pp. 77–82.
- ^ a b 寺崎 1981, pp. 84–85.
- ^ 寺崎 1981, pp. 85–93.
- ^ 寺崎 1981, pp. 93–94.
- ^ 寺崎 1981, p. 94.
- ^ 外崎 1974, pp. 119–121.
- ^ 寺崎 1981, pp. 97–99.
- ^ 外崎 1974, p. 112.
- ^ 外崎 1974, p. 119.
- ^ 寺崎 1981, p. 52.
- ^ 寺崎 1981, p. 95.
- ^ 外崎 1974, p. 130.
参考文献
[編集]- 外崎光広「『自由民権運動史』(「土陽新聞小歴史」)の筆者は大島更造である」『社会科学論集』第28号、高知短期大学、1974年5月。
- 外崎光廣「酒屋会議と児島稔」『社会科学論集』第42号、高知短期大学、1982年1月。
- 寺崎修「自由民権運動史上における児島稔」『駒大政治学論集』第14号、駒沢大学、1981年9月。