大岡忠移
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 天明4年(1784年) |
死没 | 天保8年7月11日[1](1837年8月11日) |
改名 | 千太郎(幼名)、忠移 |
戒名 | 最勝院建誉宝幢紹隆[2] |
墓所 | 浄見寺 |
官位 | 従五位下・左衛門尉、越前守 |
幕府 | 江戸幕府 日光祭礼奉行、大坂加番 |
藩 | 三河国西大平藩主 |
氏族 | 大岡氏 |
父母 | 大岡忠恒 |
兄弟 | 忠移、忠挙、義兄弟:忠與(小笠原氏) |
妻 |
正室:水野勝起の娘 継室:増山正賢の娘[3] |
子 |
忠愛、千之丞(次男)、愛行(三男)、 岩次郎(四男)、忠敬、英之助(六男)、 相之進(七男)、鶴三郎(八男)、 娘(野崎兼当室) |
大岡 忠移(おおおか ただより)は、三河国西大平藩第5代藩主。大岡忠恒の次男。大岡忠世家7代当主。
天明6年(1786年)、父・忠恒の養子として家督を継いでいた義兄(姉婿)の第4代藩主忠與の死去により、わずか2歳で家督を相続する。就任して間もなく、藩は財政難であったために寛政11年(1799年)に倹約令を布き、借金返済の停止や資金調達を行なった。享和元年(1801年)に日光祭礼奉行、翌年に大坂加番、文化2年(1805年)と文政7年(1824年)、2度日光祭礼奉行を務めた。文政11年(1828年)に病を理由に隠居し、家督を長男の忠愛に譲る。天保8年(1837年)に死去した。享年54。
系譜
[編集]父母
正室、継室
子女