大封裔
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大封裔 | |
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渤海 | |
王朝 | 渤海 |
人物
[編集]崔致遠が著した『謝不許北国居上表』には王子と記されているが、誰の王子なのかは不明である[1]。
897年7月に賀正使として入唐したが、唐は、朝貢の序列において渤海使の席を新羅の下に置いていたため、大封裔は、席次を新羅より上位にすることを要請したが、唐は許可しなかった[1]。その際に、唐が不許可にしたことを感謝して、崔致遠が執筆し、新羅王である孝恭王から唐皇帝である昭宗に宛てた公式な国書が『謝不許北国居上表』である[2]。
『謝不許北国居上表』には、「渤海を建国した大祚栄は高句麗領内に居住していた粟末靺鞨人であり、渤海は高句麗領内に居住していた粟末靺鞨人によって建国された」と記録されている[3]。
臣謹按渤海之源流也、句驪未滅之時、本為疣贅部落。靺鞨之屬、實繁有徒、是名粟末小蕃、嘗逐句驪内徙。其首領乞四羽及大祚榮等、至武后臨朝之際、自營州作孽而逃、輒據荒丘、始稱振國。時有句驪遺燼、勿吉雜流
渤海の源流を考えてみるに、高句麗が滅亡する以前、高句麗領内に帰属していて、取り立てて言うべき程のものでもない靺鞨の部落があった。多くの住民がおり、粟末靺鞨とよばれる集団(の一部)であった。かつて唐が高句麗を滅ぼした時、彼らを「内」すなわち唐の領内(営州)へ移住させた。その後、則天武后の治世に至り、彼らの首領である乞四比羽および大祚栄らは、移住地の営州を脱出し、荒丘に拠点を構え、振国と称して自立した。高句麗の遺民・勿吉(靺鞨)の諸族がこれに合流し、その勢力は発展していった[2]。 — 崔致遠、謝不許北国居上表
脚注
[編集]- ^ a b c “대봉예(大封裔)”. 韓国民族文化大百科事典 2022年4月18日閲覧。
- ^ a b 石井正敏『日本渤海関係史の研究』吉川弘文館、2001年4月、171頁。ISBN 978-4642023634。
- ^ 石井正敏『日本渤海関係史の研究』吉川弘文館、2001年4月、172頁。ISBN 978-4642023634。