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大塔村立三川第二小学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大塔村立三川第二小学校

2020年11月現在の三川第二小学校跡
過去の名称 五味尋常小学校
三川第二尋常小学校
三川第二国民学校
三川第二小学校
国公私立の別 公立学校
設置者 大塔村
設立年月日 1887年(明治20年)
閉校年月日 1969年(昭和44年)
共学・別学 男女共学
分校 木守分校(1966 - 1969)
所在地 646-1332
和歌山県西牟婁郡大塔村五味
(廃校当時)
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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大塔村立三川第二小学校(おおとうそんりつ みかわだいにしょうがっこう)は、和歌山県西牟婁郡大塔村(現 田辺市)にあった公立小学校である。

沿革

[編集]
  • 1887年 - 五味集落内の竹本安藏氏周辺の旧神社付近、字高木原に寺子屋を開設する[1][2]
  • 1888年6月 - 五味集落内の字井ノ木に移転し簡易小学校が開設される[2][3]
  • 1889年 - 大水害の被害を受け住民の困窮が甚だしく、閉校となる[2][3]
  • 1902年 - 五味、原、東伏菟野、長瀬の4区域を学区とする五味尋常小学校が設立される。仮代用教員によって授業が行われていた。当時、1・2年生は庵の谷にある庵寺で初代校長の小林氏に教わり、3年生以上は串集落の福得庵に通った[3]
  • 1905年 - 三川第二小学校と改称する。学童の増加と校舎の不備により、校舎の新築にとりかかる[3]
  • 1906年 - 新校舎落成[2]
  • 1908年4月 - 開校式が挙行される。同年、義務教育6カ年に延長し、地理・歴史・理科の三科目が加わる[3]
  • 1914年12月 - 農業補習学校が付設される[1][2][3]
  • 1915年 - 児童数55名。男性教員1名。裁縫科専科代用女性教員1名を数える[3]
  • 1916年9月 - 裁縫教室と便所の改築を行う[1]
  • 1917年 - 三川村立第二農業補習学校を併設する[2][3]
  • 1918年 - 校舎が雨漏りで普及し総費用36円の改修を行う。同年児童の大半が麻疹にかかり5日間の休校措置をとる[3]
  • 1920年 - 自主学習の習慣化のため自動文庫を設置する。本の購入費用として3年生以上の児童に毎月2銭を集金し、毎月日本少年少女世界を購読していた。この年、児童数54名を数える[3]
  • 1923年 - 関東大震災の義援金7円を職員児童で送付する。同年、当時の松本校長が4~6年生10名を引き連れ瀬戸鉛山(現在の白浜町湯崎)へ4日間の修学旅行を行う[3]
  • 1926年3月12~15日 - 修学旅行が4日間の行程で行われる。三川第二小学校6名と豊原小学校10名で合同で行われる。参加者には一人につき1円の旅費補助が行われた[3]
    • 3月12日 - 出発。熊野林業学校を見学後田辺の宿に泊まる。
    • 3月13日 - 女学校、裁判所、中学校、盲唖学校を見学後、瀬戸鉛山村温泉(現在の南紀白浜温泉)に入浴する。
    • 3月14日 - 高山寺、鉄工場、製氷会社、温室を見学。
    • 3月15日 - 新報社を見学後帰校。
  • 1931年 - 児童数84名[3]
  • 1932年 - 学校給食が開始される[3]
  • 1933年 - 補習青訓授業が開始される[3]
  • 1934年 - 運動場の工事が始まる。この年より1学級増え、児童数は63名となる[3]
    • 改築のため冬季休業を取りやめ2月14~28日まで休暇認可申請を行っていたが、大工の都合によりこの休業期間は延期され3月中旬となる。
    • 3月1日 - 校舎改築の棟上式が行われる。
    • 4月17日 - 高等科設置につき新校舎へ移転。開校式典を挙行する。
    • 5月 - はしかが流行し休校する。
    • 6月 - 青年学校夜間授業が開始される。
    • 6月8~16日 - 農繁期のため託児所を開設し2~7歳の幼児18名の託児所となる。
    • 11月19日 - 新校舎落成式が行われる。
  • 1937年2月28日 - 運動場拡張工事が完了し、53.22坪となる[3]
  • 1941年 - 三川第二国民学校と改称する[2]
    • 2月23日 - 校庭に炭窯を築造する[3]
    • 7月28日 - 相撲場が建築される[3]
  • 1943年 - 三川第二青年学校を閉鎖し合川に三川青年学校が開校する[3]
  • 1945年 - 運動場を開墾する[3]
  • 1946年12月21日 - 昭和南海地震により校庭にひびが入る[3]
  • 1947年 - 三川第二小学校と改称[2]。高等科を廃止[3]
  • 1948年 - PTA三川第二小学校育友結成発表会が行われる。父兄によってボール逃排用の垣が設置される[3]
    • 12月18日 - 連合国軍放出物資により第1回学校給食が行われる[3]
  • 1951年5月27日- 給食炊事室が竣工される[3]
  • 1955年 - 青年学級開設。PTAによりストーブが設置される。薪は各家庭より寄付されていた[3]
  • 1961年 - 新校舎完成[2]
  • 1969年 - 児童数減少に伴い三川第一小学校へ統合される[2]
  • 1996年 - 三川第二小学校同窓会により閉校記念碑が立てられる[2]

閉校後の利用

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校舎前に立つ閉校記念碑

現在、学校跡及び校舎は福祉施設である「あすなろグループホーム」の施設として利用されている[4]

また、校舎手前に閉校記念碑「思い出の里」が立ち、略史が刻まれている。

脚注

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  1. ^ a b c 三川村郷土誌 -和歌山県旧大塔村交流サイト”. www16.plala.or.jp. 2020年12月7日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k この記述は校舎跡に建てられた閉校記念碑に書かれた略史を参考にしている。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa 『大塔村誌』和歌山県西牟婁郡大塔村、1987年。 
  4. ^ 廃校舎の物語(33)/三川第二小学校(田辺市五味)/若者の共同生活の場に:紀伊民報AGARA”. www.agara.co.jp. 2020年12月7日閲覧。

関連項目

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