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大同燐寸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大同燐寸(だいどうまっち)は、かつて兵庫県神戸市兵庫区に存在した企業マッチの生産を行っていた[1]

大同燐寸設立

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1926年、当時日本進出を目指していたスウェーデン燐寸は、日本の全燐寸会社との合弁を試みたものの失敗に終わり、その翌年以降は、日本の個々の燐寸会社との折衝を試みるようになる。そして当時日本一であった東洋燐寸との折衝に入り、東洋燐寸、日本燐寸、公益社を統合した大同燐寸が設立された。大同燐寸の社長には瀧川儀作が就任し、同社の資本の半分はスウェーデン燐寸から拠出されていた。工員7000人、工場15箇所、印刷工場2箇所、軸木工場3箇所、月の生産能力3万トンで国内の65%を抑えるという規模であった[2]

衰退から消滅へ

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大同燐寸は国内需要の8割ほどを制覇するに至ったが、1931年からの不況により賃金引下げや工場閉鎖が相次ぎ、1932年には重役間での内紛が発生し、瀧川儀作は社長を退きスウェーデン燐寸系の人物が社長に就任した。しかし、同年スウェーデン燐寸本社社長のイーヴァル・クルーガーが資金難を苦に自殺し、スウェーデン本国からの支援が絶たれて経営が成り立たなくなる[2]。同年、大同燐寸は鮎川義介日本産業の傘下に入り、1939年には日産農林工業との合併により消滅した[3]。 

脚注

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  1. ^ 瑞典系の野心から大同燐寸に大波瀾”. 神戸大学経済経営研究所. 2018年10月29日閲覧。
  2. ^ a b スウェーデンマッチの日本上陸”. 日本燐寸工業会. 2018年10月29日閲覧。
  3. ^ マッチ年表”. 日本燐寸工業会. 2018年10月29日閲覧。