大友塩市丸
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天文19年2月10日(1550年2月26日) |
氏族 | 大友氏 |
父母 | 父:大友義鑑 |
兄弟 |
義鎮(宗麟)、晴英(大内義長)、 塩市丸、一条房基室、河野通宣室、吉弘鑑理室(貞善院義誉静音)[1]、小田部鎮元室 (一説には)親貞、大友隼人[2] |
大友 塩市丸(おおとも しおいちまる)は、戦国時代の人物。豊後国大友氏の一族。
生涯
[編集]大友氏20代当主・大友義鑑の三男として生まれる。生母は義鑑の側室といわれ、兄である義鎮(宗麟)や大内義長とは別腹である。また、同腹に女子がいる。
父義鑑は嫡男の義鎮と疎遠になる一方で塩市丸を溺愛し、入田親誠と計り義鎮を廃嫡して塩市丸を世子に立てようとした。しかし大友家臣団の中には義鎮を支持する一派も多く、義鑑はそれらを粛清して強引に塩市丸を立てようとした。このため、身の危険を感じた義鎮派の中心人物である津久見美作守、田口鑑親らにより、天文19年(1550年)2月10日の夜、豊後府内館の2階で寝ていた塩市丸らは襲撃を受け、塩市丸とその生母、妹はその場で斬り殺され、義鑑も2日後にこのときの傷が原因で死去した(二階崩れの変)。
これにより、塩市丸の異母兄である義鎮が21代当主になった。
注釈
[編集]- ^ 『大友・松野・吉弘氏関係略系図』
- ^ 『立花遺香』 P.107~108