大信寺 (高崎市)
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大信寺 | |
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所在地 | 群馬県高崎市通町75 |
山号 | 願行山 |
院号 | 峰巖院 |
宗派 | 浄土宗 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | 戦国時代後期 |
開基 | 内藤昌月 |
文化財 | 守随彦三郎の墓(高崎市指定重要文化財)、徳川忠長の墓 附 忠長の霊牌その他(高崎市指定史跡) |
公式サイト | 高崎市の寺院|徳川忠長ゆかりの寺|浄土宗願行山峰巖院-大信寺 |
法人番号 | 4070005002130 |
歴史
[編集]戦国時代後期、内藤昌月の開基である。昌月は武田信玄の家臣で、西上野侵攻後に武田領となった箕輪城の城代であった。その城下に寺を創建したのが当寺の起源である[1]。
その後、箕輪城の城主だった井伊直政が居城を高崎城に移転した際に、当寺も高崎に移転した[1]。
当寺は江戸幕府第3代将軍徳川家光の弟徳川忠長の墓があることで知られている。忠長は不行跡のかどで改易・逼塞が命じられ、高崎藩の藩主安藤重長に預けられた。そして1633年(寛永10年)、幕命により切腹した。享年28[2]。
切腹後、忠長の遺体は当寺に葬られたが、罪人のため墓石を建てることは許されず、四十三回忌にあたる1675年(延宝3年)にようやく墓石が建てられた。それでも玉垣で隔離され、鎖が巻かれるなど、完全に名誉回復されたわけでは無かった[2]。
当寺には、忠長ゆかりの品々が残されている[2]。これらの品々と墓は高崎市の史跡に指定されている[3]。
文化財
[編集]交通アクセス
[編集]- 高崎駅より徒歩8分。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 群馬県高等学校教育研究会歴史部会 編『群馬県の歴史散歩(歴史散歩10)』山川出版社、2005年