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多胡謙治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
たご けんじ

多胡 謙治
生誕 1895年3月14日
日本の旗 日本岡山県勝田郡勝加茂村
(現・津山市
死没 1951年7月14日(56歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 旧制高梁中学
(現・岡山県立高梁高等学校
東京歯科医学専門学校
ペンシルベニア大学
職業 歯科医師教育者
著名な実績 歯科矯正技術の発展
肩書き 東京女子歯科医学専門学校教授
配偶者 浅子(森槐南の次女)
子供 眞佐子(長女)
梯(長男)
潔(次男)
知恵(次女)
  • 又次郎(父)
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多胡 謙治(たご けんじ、1895年明治28年)3月14日[1] - 1951年昭和26年)7月14日[2])は、日本の歯科医師であり教育者である。東京女子歯科医学専門学校(現:神奈川歯科大学)教授。岡山県津山市出身[3]

経歴

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生い立ち

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1895年(明治28年)に岡山県勝田郡勝加茂村(現:津山市)の多胡又次郎の三男として生まれる[1]。旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し[4]、1916年(大正5年)に同校を卒業し、東京歯科医学専門学校(現:東京歯科大学)へ進学。1919年(大正8年)東京歯科医専を卒業し、24歳で直ちに同校の助手となる[1]

歯科医として

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東京歯科医専の助手として勤務していたが、1921年(大正10年)12月に離職[5]して、渡米する[1]ペンシルベニア大学へ留学し、1923年6月に卒業し、Doctor of Dental Surgery(D.D.S:歯科医師)の学位を取得する。さらに、1925年(大正14年)には日本へ帰国し、東京赤坂で歯科を開業する傍ら、東京女子歯科医専(現:神奈川歯科大学)の教授として教鞭を執った[1]

その後、多胡は、1927年(昭和2年)32歳のときに、長女の眞佐子が誕生し[1]、1935年(昭和10年)日本矯正歯科医学会の会長を務めた[6]。歯科界にその人ありといわれた多胡であったが[2]、1951年(昭和26年)7月14日、自宅にて死去[2]。享年56歳であった。多胡は、特に日本の歯科技術でも矯正分野に強く、矯正技術向上に貢献した[7]

趣味

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趣味はゴルフであり[8]、ホールインワンをとったこともある。また、テニスや和音楽なども嗜んでいた[1]

脚注

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[脚注の使い方]

  1. ^ a b c d e f g 大衆人事録 第5(昭和7年)版 タ-ワ之部 p.62, 帝国秘密探偵社 編, 帝国秘密探偵社[ほか], 昭和7年
  2. ^ a b c 日本歯科評論 (108), ヒョーロン・パブリッシャーズ, 1951-10
  3. ^ 日本歯科評論 (18), ヒョーロン・パブリッシャーズ, 1942-03
  4. ^ 帝国人事大鑑 昭和11年版 p.80
  5. ^ 歯科学報 = The journal of the Tokyo Dental College Society 27(5), (東京歯科大学学会, 1922-05)
  6. ^ 新歯科医報 7月號 (218), 新歯科医報社, 1935-07
  7. ^ 日本医籍録 : 附・医学博士録・法規 (2分冊)2版 p.20, 医事時論社, 大正15年
  8. ^ 日本医事新報 (711), 日本医事新報社, 1936-04