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多羅尾光吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
多羅尾光吉
時代 室町時代戦国時代
生誕 文明11年(1477年[1]
死没 永禄11年2月4日1568年3月9日[1]
戒名 道安、宗清
官位 左京進、和泉守[1]
幕府 室町幕府
氏族 多羅尾氏
父母 父:多羅尾光紀[2]
池田教正女?
光俊
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多羅尾 光吉(たらお みつとし)は、室町時代から戦国時代にかけての近江国武将。『寛政重修諸家譜』では妻は池田教正の娘であるとされるが、教正の活動の初見は永禄年間であり時代が合わない。

生涯

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近江国甲賀郡信楽荘小川の国人[1]。同じく信楽荘の有力国人であった鶴見成俊との抗争に勝利し、勢力を拡大させることに成功したという。

脚注

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  1. ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』
  2. ^ 太田亮『姓氏家系大辞典』第4巻(国民社、1943年)

参考文献

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  • 寛政重修諸家譜』 15巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0219-2