多田昌綱
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 永禄10年(1567年) |
死没 | 慶長10年(1605年)1月20日 |
別名 | 三八郎 |
戒名 | 法三 |
主君 | 武田勝頼→徳川家康→徳川秀忠 |
氏族 | 多田氏 |
父母 | 父:多田昌俊、母:金丸虎義娘 |
兄弟 | 昌綱、女子(米倉清継妻) |
妻 | 不明 |
子 | 昌繁 |
特記 事項 | 多田昌澄の孫 |
多田 昌綱(ただ まさつな)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。三八郎[1]。祖父は、甲斐武田家に仕えた「武田の5名臣」の一人・多田昌澄。
略歴
[編集]永禄10年(1567年)12月、父・昌俊が武蔵国岩槻(埼玉県さいたま市岩槻区)で戦死後、幼少の昌綱は、外戚の土屋昌次に養育された[1]。武田氏の滅亡後は徳川家康に仕えた[1]。
天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いに従軍する[1]。
天正18年(1590年)、武蔵国鉢形で采地を与えられた[1]。
天正19年(1591年)に九戸政実の乱に従軍した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際は徳川秀忠率いる東山道軍に参加し、第二次上田合戦に加わった。
慶長6年(1601年)、徳川義直の傅となり、300石を加増された[1]。
慶長10年(1605年)1月20日、死去[1]。39歳[1]。法名は法三[1]。
子孫は徳川氏の旗本となった。
一族
[編集]多田一族は武田氏に従い、およその一族は天正3年(1575年)の長篠の戦いや天正10年(1582年)の天目山の戦いにて戦死したとされている。『寛永諸家系図伝』『甲陽軍鑑』『甲斐国志』に拠れば、多田昌治(昌春、三八郎の長男)と子の新蔵昌勝は長篠で戦死した。昌治の次男の久蔵昌綱は叔父の昌俊(三八郎の三男)の養子となっていたが、一族の角助昌繁らと田野で戦死したとされている。
多田昌俊に関しては、武田家を出奔して相模国の後北条氏に仕え、永禄10年(1567年)12月に武蔵国岩槻(埼玉県さいたま市岩槻区)で戦死した[2]とも、武田家滅亡に伴い殉死した[3]ともされている。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 平山優「多田三八郎」『新編武田信玄のすべて』新人物往来社、2008年
- 「巻第二百六十九 清和源氏 頼光流 多田」『寛政重脩諸家譜』 第二輯、國民圖書、1923年4月23日 。