多田義俊
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(多田南嶺から転送)
多田 義俊(ただ よしとし、元禄7年(1694年)[1] - 寛延3年9月13日(1750年10月12日))は、江戸時代の国学者、有職故実家、浮世草子作者。浮世草子作者としては、多田 南嶺(ただ なんれい)と号した[1]。姓は多田氏、のちに桂氏[1]。名は義寛・満泰・義俊・秀樹・政仲[1]。通称は兵部[1]。号は南嶺のほかに、男鈴・春塘・随時翁など[1]。
来歴
[編集]摂州多田社の御家人の家に生まれたとされる[1]。13歳頃までに大坂で鳥山芝軒・青木主計らに漢学と垂加神道を学び、10代後半には京都に上り、歌学・官職学・吉田垂加神道を学んだ[1][2]。27-28歳頃から大坂で官職学・神道を教授した後、再び京都に上り、壺井義知に有職故実を学ぶ[1][2]。しかし、『旧事紀偽書明証考』が原因で壺井から義絶される[1][2]。それ以降は各地で講義を行い、名古屋で河村秀穎・河村秀根を門弟に得た[2]。
学者としての活躍のほか、随筆や語学書の執筆、八文字屋本の刊行、俳諧など、その活動は多岐にわたる[1][2]。
著書
[編集]南嶺の実作か否か、判然としない作品も多い。神谷勝広は南嶺作とされる作品のうち、南嶺実作は28作品、留保作が8作品、非南嶺作が2作品とした[3]。
国学
- 『神学在疑録』
- 『神学在疑録』
- 『旧事紀偽書証考』
- 『神明憑談』
随筆
- 『南嶺子』
- 『南嶺遺稿』
有識故実
- 『武家故実奥儀伝』
- 『職原鈔弁講』
語学書
- 『以呂波声母伝』
浮世草子
- 『鎌倉諸芸袖日記』
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 古相正美 『国学者多田義俊南嶺の研究』 勉誠出版、2000年。ISBN 4-585-10071-7。