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外山卯三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

外山 卯三郎(とやま うさぶろう、1903年〈明治36年〉1月25日 - 1980年〈昭和55年〉3月21日)は、日本美術評論家教育者

主な経歴

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1903年(明治36年)1月25日、和歌山県に生れる[1]1928年(昭和3年)に京都帝国大学文学部美術史学科を卒業した[1]。同年、同人誌『詩と詩論』の発行に参画する[2]

1939年(昭和14年)、ナチスによって閉鎖されたバウハウスの流れを汲む画塾「美術工芸学院」を、東京高円寺に開く。画塾には三木清西園寺公一、現代アートの前衛画家たちが訪ねてきたが、学生は富山妙子ら10人ほどしか集まらず、経営難に陥った。[3]

1946年(昭和21年)、造形美術協会を創立して理事長に就任する[1]。また1953年(昭和28年)から翌年にかけて女子美術大学講師、さらに1966年(昭和41年)から1974年(昭和49年)まで武蔵野音楽大学講師および教授を務めた[1]

1980年(昭和55年)3月21日、心不全のため静岡県御殿場市の駿東第一病院で死去した[1](満77歳没)。

著作

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  • 『現代の水彩畫研究』金星堂 1922年
  • 『詩の型態学的研究』東京詩学協会 1926年
  • 『ジアニインの歌章』ジアンヌ・アラン著、外山卯三郎訳 東京詩学協会 1927年
  • 『劇作の理論と実際:戯曲的構造の要素に就いての実践的論文』アルフレッド・ヘンネツキン著、外山卯三郎訳 原始社 1927年
  • 『詩の形態学的研究:特に時間的要素に依る誘導的形態』厚生閣 1928年

脚注

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  1. ^ a b c d e 外山卯三郎”. 東京文化財研究所 (2021年). 2023年6月18日閲覧。
  2. ^ 季刊で発刊、外山卯三郎らが同人『東京朝日新聞』昭和3年9月29日(昭和ニュース事典編纂委員会『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』毎日コミュニケーションズ、1994年、本編 p.231 )
  3. ^ 『〈男文化〉よ、さらば 植民地、戦争、原発を語る』辛淑玉・富山妙子共著 岩波ブックレット 2013 pp.20-23