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夏詒霆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
夏詒霆
Who's Who in China 3rd ed. (1925)
プロフィール
出生: 1878年光緒4年)
死去: 1944年民国33年)
中華民国上海市
出身地: 清の旗 江蘇省常州府江陰県
職業: 政治家・外交官
各種表記
繁体字 夏詒霆
簡体字 夏诒霆
拼音 Xià Yítíng
ラテン字 Hsia I-t'ing
注音二式 Shià Yítíng
和名表記: か いてい
発音転記: シャー イーティン
英語名 Hsia Yi-Ting
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夏 詒霆(か いてい)は、中華民国の政治家・外交官。北京政府で外交事務に携わった。廷斎

事跡

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貢生となった後、ベルリンのドイツ公使館で翻訳官をつとめる。その後、スペイン公使館館員、パリ(フランス)公使館一等秘書官となる。1912年民国元年)、夏詒霆は北京政府外交部秘書となり、翌年2月、国務院秘書に異動している。同年8月、日本に赴任し、1か月だけ署理横浜総領事となった。その後もベルギー・フランス在外公館領事を歴任した。1915年(民国4年)3月、夏は外交部参事となる[1][2]

1916年(民国5年)3月、帝制の目論見が潰えた袁世凱が新たな政治制度を検討するための政治研究会を創設し、夏詒霆はこの研究会の秘書長に任じられている[2]。4月、夏は外交部次長代理となった。10月、段祺瑞内閣の外交総長代理を暫時つとめ、次いで大総統顧問兼国務院顧問に就任した。1918年(民国7年)2月[3]、ブラジル・ペルー公使に任命されている。1920年(民国9年)1月、二等文虎章を、1922年(民国11年)10月、一等大綬嘉禾章を、それぞれ授与された。1927年(民国16年)、[4]。任務を終えて帰国した[1]

その後は南京に居住し、1936年(民国25年)、故郷の江陰県に戻った。しかし、まもなく日中戦争が勃発したため、上海に逃れている。1944年(民国33年)、同地にて病没[5]。享年67。

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  1. ^ a b 徐主編(2007)、1142頁。
  2. ^ a b Who's Who in China 3rd ed., p.298.
  3. ^ 徐主編(2007)、1142頁による。Who's Who in China 3rd ed., p.298.は、1917年10月就任としている。
  4. ^ 徐主編(2007)、1142頁による。Who's Who in China 5th ed., p.85は、1922年までの任期としている
  5. ^ 澄(2012)。

参考文献

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  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • Who's Who in China 3rd ed. (中國名人錄 第三版). The China Weekly Review (Shanghai) (上海密勒氏評論報). (1925) 
  • Who's Who in China 5th ed. (中國名人錄 第五版). The China Weekly Review (Shanghai) (上海密勒氏評論報). (1936) 
  • 澄文《外交家夏诒霆》江陰市曁陽名賢研究院網站、2012年6月24日
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
陳錦濤
外交総長(代理)
1916年10月 - 11月
次代
伍廷芳