夏恭
夏恭 | |
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『最新支那要人伝』(1941年) | |
プロフィール | |
出生: | 1872年(清同治11年)[1] |
死去: | 不詳 |
出身地: | 清山西省大同府大同県 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 夏恭 |
簡体字: | 夏恭 |
拼音: | Xià Gōng |
ラテン字: | Hsia Kung |
和名表記: | か きょう |
発音転記: | シャー ゴン |
夏 恭(か きょう)は中華民国の政治家。親日地方政権である晋北自治政府の最高委員。後に蒙古聯合自治政府で副主席に就任した。
事績
[編集]蒙古自治に関する活動
[編集]1897年(光緒23年)に挙人となる。その後、中学堂教員や知県を歴任した[1]。
1937年(民国26年)9月、日本軍が山西省大同県を占領する。在野にあった夏恭は日本軍により招聘され、大同で晋北治安維持会を組織した[2]。10月15日、親日地方政権として晋北自治政府が組織され、夏と馬永魁が最高委員に任命された[3]。11月22日、張家口において、蒙古聯盟自治政府(主席:デムチュクドンロブ(徳王))[4]、察南自治政府(最高委員兼会議代表:于品卿)、晋北自治政府(最高委員兼会議代表:夏恭)の代表者会議が開催された[5]。その結果、蒙彊聯合委員会が成立し、夏は総務委員兼交通専門委員会委員となる[1][2]。
1938年(民国27年)10月23日から11月7日にかけて、夏恭は徳王・于品卿と共に日本を訪問し、昭和天皇に拝謁、靖国神社を参拝した[6]。1939年(民国28年)9月、上記3政府が合流して、蒙古聯合自治政府が成立、夏は同政府の副主席に任命された[7]。翌1940年(民国29年)1月10日に副主席を辞職、大同炭鉱株式会社理事長となっている[8]。
晩年の動向
[編集]徐友春『民国人物大辞典 増訂版』によると、夏恭は1941年(民国30年)に死去したとされる(享年70)[2]。しかし『朝日新聞』1943年5月8日報道によると、夏恭は満州帝国の康徳帝(愛新覚羅溥儀)から勲二位景雲章を授与されており、これに関して特に追贈との注記は無い[9]。また、『朝日年鑑』昭和19年(1944年)版の「大東亜人名録」(636頁)でも、大同炭鉱理事長として存命人物扱いでの記載が見受けられる。以上から、夏恭は1943年時点では存命の可能性が高い。ただし、1945年8月に蒙古自治邦が崩壊した時点においては、夏恭の生死・行方は不詳である。
注
[編集]- ^ a b c 東亜問題調査会編(1941)、32頁。
- ^ a b c 徐主編(2007)、1132頁。
- ^ 「晋北十三県民結束 自治政府成立す 反閻運動の烽火揚ぐ」『東京朝日新聞』昭和12年(1937年)10月16日、2面。
- ^ この会議には、徳王の代理としてチョトパジャップ(卓王)が出席した。「蒙疆聯合委員会 調印を了す きのう厳粛に挙行」『東京朝日新聞』昭和12年(1937年)11月23日、2面。
- ^ 『東京朝日新聞』昭和12年(1937年)11月23日、2面。
- ^ 「蒙疆代表 感謝の入京」『読売新聞』昭和13年(1938年)10月21日夕刊、1面。
- ^ 「蒙古聯合自治政府 きょう晴れの誕生 三政権を打って一丸」『東京朝日新聞』昭和14年(1939年)9月1日、2面。
- ^ 「大同炭鉱創立総会」『東京朝日新聞』昭和15年(1940年)1月11日、4面。夏の辞任から約1年5か月を経過した1941年(民国30年)6月1日、ようやく後任の副主席として李守信が就任した(「蒙古政府 機構改革」『朝日新聞』昭和16年(1941年)5月31日、2面)。
- ^ 「汪主席、徳王に勲章御贈進 満州国皇帝陛下」『朝日新聞』昭和18年(1943年)5月8日、1面。
参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 東亜問題調査会編『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。
- 『朝日年鑑 昭和19年版』朝日新聞社、1944年。
晋北自治政府
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