コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

壱岐市立鯨伏小学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
壱岐市立鯨伏小学校
地図北緯33度48分14秒 東経129度41分21秒 / 北緯33.804度 東経129.689139度 / 33.804; 129.689139座標: 北緯33度48分14秒 東経129度41分21秒 / 北緯33.804度 東経129.689139度 / 33.804; 129.689139
過去の名称 第五大学区第四中学区立石小学校
立石学区立石小学校
立石学区公立中等立石小学校
立石・本宮村立中等立石小学校
可須学区中等立石小学校
壱岐郡尋常鯨伏小学校
鯨伏尋常小学校
鯨伏尋常高等小学校
鯨伏国民学校
鯨伏村立鯨伏小学校
勝本町立鯨伏小学校
国公私立の別 公立学校
設置者 壱岐市
併合学校 立石学区公立中等本宮小学校
設立年月日 1875年明治8年)5月
(立石小学校)
共学・別学 男女共学
学期 3学期制
学校コード B142210002400 ウィキデータを編集
所在地 811-5555
長崎県壱岐市勝本町立石南触1137番2号
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
テンプレートを表示

壱岐市立鯨伏小学校(いきしりつ いさふししょうがっこう, Iki City Isafushi Elementary School)は長崎県壱岐市勝本町立石南触にある公立小学校。略称は「鯨伏小」。

概要

[編集]
歴史
1875年明治8年)に開校した「第五大学区第四中学区立石小学校」を前身とする。2010年平成22年)に創立135年を迎えた。
校章
1921年大正10年)に制定。別名「雪の島」と呼ばれる「壱岐島」の名にちなみ、3番のガチョウの羽筆を結晶の形に配置し、を付け加えたものとなっている。
校歌
1921年(大正10年)に制定。作詞は福田茂樹、作曲は山口常光[1]による。歌詞は4番まである。歌詞に校名は登場しない。
校区
住所表記で、勝本町の後に「立石西触」、「立石南触」、「立石仲触」、「立石東触」、「百合畑触」、「布気触」、「上場触」、「湯本浦」、「本宮東触」、「本宮仲触」、「本宮西触」、「本宮南触」が続く地区[2]。中学校区は壱岐市立勝本中学校[3]

沿革

[編集]
旧・立石小学校から現・鯨伏小学校へ
  • 1872年(明治5年)・1873年(明治6年)頃 - 立石南触観世音寺の観音堂で村内の児童十数名に読書、珠算を教育。
  • 1875年(明治8年)5月 - 「第五大学区第四中学区立石小学校」が創立される。
  • 1877年(明治10年)8月 - 立石村南触鬼川の内八ツ口の山林を切り開き、校地とする。校舎は香椎村勝本浦の古屋を購入し、建築。
  • 1882年(明治15年)4月 - 「立石学区立石小学校」に改称。
  • 1883年(明治16年)3月 - 「立石学区公立中等立石小学校」に改称。
  • 1884年(明治17年)9月 - 本宮小学校を本宮分舎とし、「立石・本宮村立中等立石小学校」と改称。
  • 1885年(明治18年)6月 - 「可須学区中等立石小学校」と改称。
  • 1886年(明治19年)3月
    • 布気触字榎川の下條久三郎の旧宅地を購入し、立石八ツ口から移転。
    • 本宮分舎を統合し、二ヶ村(立石村・本宮村)一校体制となり、「壱岐郡尋常立石小学校」と改称。
  • 1887年(明治20年)8月 - 「立石学区簡易立石小学校」と改称。
  • 1882年(明治25年)12月 - 「鯨伏尋常小学校」と改称。
  • 1908年(明治41年)4月 - 高等科を併置し、「鯨伏尋常高等小学校」と改称。
  • 1917年(大正6年)4月1日 - 鯨伏補習学校を併設。
  • 1921年(大正10年)- 校章・校歌を制定。鯨伏補習学校を鯨伏実業補習学校に改称。
  • 1926年(大正15年)6月 - 鯨伏実業補習学校が青年訓練認定鯨伏実業補習学校に改称し、男子研究科を設置。
  • 1929年昭和4年)4月 - 実業補習学校に女子専修科を設置。
  • 1935年(昭和10年)4月 - 青年学校令により、青年訓練認定鯨伏実業補習学校を「鯨伏青年学校」に改称。
  • 1941年(昭和16年)4月1日 - 国民学校令により、「鯨伏国民学校」に改称。
  • 1944年(昭和19年)6月 - 鯨伏青年学校が鯨伏高等実業青年学校に改称し、青年道場[4]に移転。併設を解消。
  • 1947年(昭和22年)4月1日
    • 学制改革(六・三制)の実施により、「鯨伏村立鯨伏小学校」に改称。
    • 鯨伏村立鯨伏中学校の1・2年生の授業が小学校校舎を利用して行われる。
  • 1949年(昭和24年)2月19日 - 本宮南触175番地に鯨伏中学校新校舎が完成し、中学1・2年との併設を解消。
  • 1955年(昭和30年)2月11日 - 鯨伏村が勝本町に編入され、「勝本町立鯨伏小学校」に改称。
  • 1956年(昭和31年)- 小学校校舎の一部を利用し、勝本町立鯨伏幼稚園が開園。
  • 1958年(昭和33年)- 鯨伏幼稚園の園舎が本宮南触字松崎242番地に完成。
  • 1965年(昭和40年)- 霞翠小学校校地に勝本町立学校給食共同調理場が完成し、完全給食を開始。
  • 1971年(昭和46年)- 鯨伏幼稚園が2年保育を開始。
  • 1978年(昭和53年)- 第1回勝本町内小学校(勝本霞翠・鯨伏)体育大会を実施。
  • 1979年(昭和54年)9月1日 - 現在地に新校舎が完成し、移転。授業を開始。
  • 1981年(昭和56年)3月6日 - 体育館が完成。
  • 2004年(平成16年)3月1日 - 町村合併により、「壱岐市立鯨伏小学校」(現校名)に改称。
  • 2011年(平成23年)
    • 4月1日 - 隣接の鯨伏中学校が統合のため閉校。これにより中学校区が壱岐市立勝本中学校となる。
    • 7月 - 勝本地区学校給食共同調理場が閉鎖。
    • 9月1日 - 壱岐市学校給食センターが勝本町亀石地区に完成したことにより、同センターからの配送方式に変更。
旧・本宮小学校
  • 1873年(明治6年)- 本宮村東触字里の報恩寺を借り、新城村の須田大平・本宮村の岩永恒太郎等が村学を開き、村内の子弟を集め、読書・習字・珠算等を教授。
  • 1874年(明治7年)- 第五大学区第四中学区可須小学校(現・壱岐市立霞翠小学校)が開校し、村学の多くの児童が転学したため、村学が閉鎖。
  • 1876年(明治9年)9月 - 「第五大学区第四中学区本宮小学校」が開校。
  • 1880年(明治13年)7月 - 校舎を報恩寺から本宮仲触の松本仁作宅に移転。「本宮部本宮小学校」に改称。
  • 1881年(明治14年)11月 - 「本宮部公立本宮小学校」と改称。
  • 1883年(明治16年)2月 - 「本宮学区公立中下等本宮小学校」と改称。
  • 1884年(明治17年)
    • 2月 - 「立石学区公立中等本宮小学校」を改称。
    • 9月 - 校舎を小金丸蜜之助宅に移転。中等立石小学校の分舎となる。
  • 1886年(明治19年)3月 - 立石小学校に統合され、廃止。

アクセス

[編集]
最寄りの港
最寄りのバス停
最寄りの県道

周辺

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 長崎県立壱岐高等学校長崎県立壱岐商業高等学校壱岐市立霞翠小学校壱岐市立筒城小学校の校歌も作曲している。
  2. ^ 壱岐市立小・中学校の校区の設定に関する規則 - 壱岐市ウェブサイト
  3. ^ 2011年(平成23年)4月1日に中学校規模適正化により、壱岐市立鯨伏中学校が壱岐市立勝本中学校に統合された。それまで鯨伏小学校卒業生は隣接していた鯨伏中学校に通っていたが、現在はスクールバスを利用し勝本中学校へ通学している。
  4. ^ 1924年(大正13年)、鯨伏実業補習学校の附属施設として本宮南触241番地の原周蔵の所有地に完成。

参考文献

[編集]

関連

[編集]