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壬生晨照

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

壬生 晨照(みぶ あさてる、生年不詳 - 応仁2年6月19日1468年7月8日〉)は、室町時代地下官人左大史・壬生周枝の子。官位正四位上左大史

経歴

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従五位下叙爵後、民部権少輔主殿頭を経て、永享7年(1435年左大史に任ぜられ、先任の左大史であった大宮長興を越えて官務小槻氏長者となる。その後、晨照は永享11年(1439年従四位上文安2年(1445年正四位上と昇進するが、この間に長興が官務氏長者の人事について室町幕府に直訴した結果、文安2年(1445年)2月に長興が官務小槻氏長者となる。晨照はこれに強く反発し、11月には氏長者・官務の地位を奪い返すが、これ以後、壬生晨照と大宮長興との対立は久しく続くことになる。

宝徳元年(1449年)に足利義成への将軍宣下[注釈 1]を機に官務氏長者が壬生晨照から大宮長興に移るが、晨照は長興との間で官務・氏長者の地位や氏長者の領地をめぐって相論を繰り返し、壬生家側の主張を認めさせ、寛正6年(1465年)には再び官務氏長者を大宮長興から取り戻した。

応仁2年(1468年)6月19日卒去

官歴

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地下家伝』などによる。

系譜

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地下家伝』による。

  • 父:壬生周枝
  • 母:不詳
  • 妻:不詳

脚注

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注釈

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  1. ^ 当時、幼少の将軍であった足利義成(後の義政)に代わって室町幕府の実権を握る管領の地位を巡って細川勝元と畠山持国が争っており、壬生晨照は勝元と、大宮長興は持国と連携していた。文安2年の官務の異動は同年の管領の異動と連動している(畠山持国の執奏によって大宮長興が任命されたが、管領が細川勝元に交替すると勝元の執奏によって壬生晨照が任命された)。ところが、義成が正式に征夷大将軍に任命されて単独で武家執奏が出来るようになると、祖父・足利義満の将軍宣下の先例に倣うとして官務の異動に関する執奏を行い、勝元の人事を覆してしまった。これは成人した将軍と管領との間の権力争いの要素があった[1]

出典

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  1. ^ 鳥居和之「嘉吉の乱後の管領政治」『年報中世史研究』5号、1980年。 /所収:木下昌規 編『足利義政』戒光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究 第5巻〉、2024年5月、90-91頁。ISBN 978-4-86403-505-7 

参考文献

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  • 『日本人名大辞典』講談社、2001年