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増福寺 (瑞浪市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
増福寺
所在地 岐阜県瑞浪市日吉町4059-1
位置 北緯35度24分39秒 東経137度14分40.14秒 / 北緯35.41083度 東経137.2444833度 / 35.41083; 137.2444833座標: 北緯35度24分39秒 東経137度14分40.14秒 / 北緯35.41083度 東経137.2444833度 / 35.41083; 137.2444833
山号 妙理山
宗派 曹洞宗
本尊 釈迦牟尼仏
創建年 慶長5年(1600年)
開山 玄室芳頓
開基 千村助右衛門重次
中興年 寛文2年(1662年
中興 雄堂殊英
札所等 美濃瑞浪三十三観音霊場三十二番
法人番号 7200005008565
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増福寺(ぞうふくじ)は、岐阜県瑞浪市日吉町南垣外にある曹洞宗の寺院。山号は妙理山。

概要・沿革

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天文年間(1532年~1555年)に、郷社 酒波神社の奥の院(別当寺)として、真言宗の寺院があった。「一時真言の僧みだりに住す」などと伝えられるも詳細は不明である。

慶長5年(1600年)に、当地を知行所としていた尾張藩附属の久々利九人衆千村助右衛門重次檀那となって開基し、三河国加茂郡篠原村の永澤寺系下の玄室芳頓が、宗派を曹洞宗に改宗して開山した。

寛永12年(1635年)の過去帳が残っている。

寛文元年(1661年)、本末制度の施行に先立ち、末寺帳の作成が必須となり、村役人や檀家と相談、三河篠原村の永澤寺の法系をもって、一旦は本寺とすることに決定した。

しかし檀那の千村助右衛門重次は、本寺が他国の三河では後年まで面倒であろうと考えて、近くにある開元院と交渉して諸役免除の条件をつけたので、

寛文2年(1662年)、本末制度の施行に伴い、千村助右衛門重次の勧めにより、寺・村役人・檀家も承諾して開元院を本寺として末寺帳を書き上げることに同意した。

正式に村中が納得し、開元院の第十二世領外秀存を勧請開山に迎えて、雄堂殊英が中興して再創したが、 あくまでも本山末寺の法系の変更によるものである。

そして尾張藩の寺社奉行と龍泰寺関市)へ届け出て、開元院の客末寺として登録した。

寛文4年(1664年)、千村助右衛門重次が没し、二代の千村助右衛門重伯(道止)により、増福寺と称し、領内菩提寺となった。

又、増福寺には、「妙理の宝珠」という寺宝がある。

この珠は、境内の池の中の蓮華岩の下から掘り出されたもので、人体程の微温を発した霊妙不可思議の珠であり、ここから山号を妙理山を名付けたとされる。

山門の前には七福神の石像が並んでいる。

境内

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観音堂

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十一面観音や十王像など、古くからの仏像が祀られている。

西国・四国・秩父・坂東霊場順拝記念碑

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享保年間(1716年~1736年)の頃の造営の笠塔婆[1]で、西国三十三所四国八十八箇所秩父札所三十四観音霊場坂東三十三観音を順拝者達の記念碑である。順拝者名などが刻まれているものの摩耗しており判読することができない。

三十三所観音

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増福寺入ロの右手には、安永7年(1778年)造立の三十三所観音が、天明5年(1785年)に主尊として造立された主尊の阿弥陀如来石像と共に34体で往時のままの姿で並んでいる。

主尊の阿弥陀如来石像は光背型の立像で、「天明五巳年十一月吉日」と来迎印が、願主として6人の名が彫られ、像容は光春院のものと同一である。造立年代も1年しか違わないことから、天明年間ではこうした造立が普及したものと考えられる。

廻国塔

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正徳4年(1714年)に造立の、奉納大乗妙典 日本廻国供養塔である。

立派な笠付塔で「奉納大乗妙典日本廻国供養塔 東濃土岐郡日吉邑住人 白岩全貞・西領白円 旹 正徳四甲午歳九月二十三日 願主 小栗貞右衛門尉」と刻まれており、3名同行で無事に廻国勤行を終えたものと思われる。

庚申石祠

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増福寺入ロの横穴古墳内にある庚申石祠には、「庚申 寛政十一未年正月吉日」とあり、寛政11年(1799年)に造立された瑞浪市内で唯一の庚申石祠である。

コシキ地蔵

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コシキ地蔵と呼ばれる小さな石地蔵があるが、近くの三本松にある摩崖仏[2]、小暮道登り口にある文化15年(1818年)造立の延命地蔵、本郷沓掛坂にある地蔵尊とともに線刻仏である。

馬頭観音石像

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安永8年(1779年)造立で、立姿・一面二臂である。

灯篭

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境内には、元禄9年(1696年)造立の灯篭と、嘉永2年(1849年)造立の灯篭がある。

増福寺由緒ほか書上帳

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差上申一札之事

一 本州土岐郡日吉郷之内、南垣外村妙理山増福寺開闢之年数分明ニ相知レ不申候、往古は諸宗猥ニ住持仕候由、慶長五子ノ年より吾宗之平僧地ニ相定無本寺ニて罷有候処、寛文二寅ノ年本末御吟味ニ付、同州同郡平岩村開元院末寺ニ罷成候、元禄元辰ノ年法地ニ願、開元院十二代嶺外秀存和尚勧請開山ニ仕、二代雄堂殊英和尚、只今拙僧迄三代ニ罷成大源派ニ紛無御座候、吾宗之地ト成リ当年迄百廿壱年ニ罷成候

寺務助縁之覚

  • 寺中山林 東西百三拾間程、南北百拾間程 右寺内山林、前々除ニて証文等は無御座候
  • 客殿 三間ニ六間 庫裡 三間ニ九間
  • 檀家 三拾四軒
  • 上田 壱反歩地頭除、但シ掟米壱石壱斗
  • 桐堂 金拾七両

右之通任御尋逐一遂吟味書付差上候、以上

享保五年子ノ三月 龍泰寺御役寮 土岐那日吉之内南垣外村 増福寺徹漢

増福寺鐘由来記

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「鐘山来記」(瑞浪市宮前町 寶林寺所蔵)

妙理山増福禅寺鐘銘並序

美濃州土岐郡日吉郷南垣外村、妙理山増福禅寺ハ、不知天台乎真言乎、其開祖□艸以来、星霜暦於幾百亦不知、千村氏之先祖増福寺殿心外宗無居士起立之浄地也、己是寺云増福、是理之正当也、従二世英和尚、猶五十有四年以前、将二於二尺余之大鐘投一入、於開元大鏡之鋳二釜申ニ一、其後代々以大鐘為缺為愁、予住山以后十有余年間寝寤ニ難亡却、近来議諸檀越、募衆縁何乃言乎、公器為首者鐘也、叢林之常規、昼夜三通、各三十六下、摠一百八下、寅驚タ悟、遠近聞不聞、観無常、発菩提心、成仏道於此、予豈不為之銘巴哉(略)

享和二龍次士戊春三月七日 当山七世緩応前歩謹銘

施人金名前之末ニ云

当寺檀越、十万施者、喜拾浄財、園成大器

当所庄屋 大山権右衛門 当所組頭 木俣宇右衛門 松野庄屋 小村吉右衛門

関連リンク

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参考文献

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  • 『瑞浪市史 歴史編』 第六編 近世 第五章 文化と信仰(文化宗教史) 第二節 神社と信仰 ニ 市内の近世寺院 市内の各寺院 p1035~p1036 瑞浪市 昭和49年(1974年)
  • 『ふるさとの歴史 : 郷土学習のための各町概史 (瑞浪市郷土史シリーズ ; その1)』日吉町概史 一、日吉郷 近世 南垣外村 p132~p133 渡辺俊典 瑞浪市郷土史研究会 1983年
  • 『土岐市史 1 (原始時代-関ケ原合戦)』第八編 鎌倉室町時代の宗教概観 第三章 郷土寺院の変遷 四 日吉酒波神社の神宮寺 p215 土岐市史編纂委員会  1970年

脚注

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  1. ^ 塔婆の一種で,角柱状または板状の塔身に屋根(笠)を乗せたもの
  2. ^ 瑞浪市指定文化財