塩飽お舟唄
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塩飽お舟唄(しわくおふなうた)は、瀬戸内海に面した香川県の塩飽諸島に伝わる民謡、歴史的歌謡、祝祭歌、祝祭行事で、「御船歌」(おふなうた)の一つ。21世紀現在に現存して歌われているのは、香川県坂出市だけである。
歴史
[編集]一般に「御船歌(おふなうた)」という名称で呼ばれる中世・近世の祝い事全般の歌謡・民謡[注釈 1]のうち、特に豊臣秀吉時代以降、瀬戸内海地方に伝わり、新造民間船の進水式に祝賀唄として歌われてきた。
地元中学校の記念誌には、由来が以下のように記されている。
天正5年(1577年)、私たち瀬居の祖先は塩飽水軍として活躍、時の天下人織田信長難波の国境津に至る75尋の「触れ掛かり」の特権を授与された。天正18年(1577年)、豊臣秀吉は朝鮮出兵の大計画を持っていたので、塩飽船方の実力に依存しなければならなかった。そこで、朱印状を下し、塩飽の水主(かこ)650人に対し1250石の地領を与え、尚且つ日本国内では類例を見ない大名、小名に次ぐ『人名』という格式が授与されると共に、特別な自治が許された。(中略)この唄( 塩飽お舟唄)は、豊臣秀吉公が朝鮮出兵の際、文禄元年(1592年)自ら戦況視察のため、堺の造船所で二隻の御座船、鳳凰丸、孔雀丸を建造。その進水祝いに御用船方として数々の遺功をたてた、塩飽水軍の将に所望され、祝意を込めて献上したのが、この唄であると言い伝えられている — 「塩飽お舟唄の由来」『志の道 瀬居』(坂出市立瀬居中学校50周年記念誌)坂出市立瀬居中学校(編)、2004年、美巧社、169頁。
2010年代においては、「塩飽お舟唄保存会」の会員が瀬戸内国際芸術祭のセレモニーの際に歌った事例がある[2]。
塩飽お舟唄記念石碑
[編集]1992年(平成4年)2月3日、唯一「塩飽お舟唄」が町を挙げて伝承されている香川県坂出市瀬居町[注釈 2]に、塩飽お舟唄記念石碑が建立された[3]。同石碑は、同町本浦集落、八幡神社と坂出市立瀬居中学校の間に位置する。瀬戸内国際芸術祭のセレモニーの際に歌ったのも、この記念石碑に刻まれている塩飽お舟唄の歌詞と全く同じ歌詞と伝統的な歌い方であった。