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塩谷義尾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
塩谷義尾/小幡義尾
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 永禄2年(1559年)10月
別名 乙畑孫四郎
官位 甲斐守
主君 塩谷孝綱宇都宮忠綱宇都宮興綱
宇都宮尚綱宇都宮広綱
氏族 下野宇都宮氏塩谷氏小幡氏
父母 父:塩谷孝綱
兄弟 塩谷義孝小幡義尾塩谷孝信
弾正某、義勝高升、源蔵(源三)某[1]
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塩谷 義尾(しおのや よしお)は 下野国塩谷郡戦国時代の武将。

略歴

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再興塩谷氏の初代塩谷孝綱の子[2]大永3年(1523年)11月7日宇都宮氏喜連川塩谷氏が和睦した際に、小幡氏の養子になり、乙畑城城主となったと言われている。以後、乙畑城は再興塩谷氏の本拠川崎城の支城として機能した。

永禄2年(1559年)10月に総大将として結城氏結城晴朝と戦い、住民も含めて3000人もの人々を乙畑城や周辺の山々に篭城させて戦ったものの、壮絶な討死を遂げている。乙畑城記[3]は次のように記す。

「高橋かもん(孫四郎の足を)ひさ口より切て落としたり。孫四郎片足にて暫く戦しかいたてなれハ彼所かっぱと臥たり、かもん首を打落し長刀の先に貫大音上げ敵の大将孫四郎高橋かもん打取ったりと呼ばりたり・・・」
(結城方の武将高橋かもんは、孫四郎の膝より下を切り落とし、片足で戦っていた孫四郎の首を討ち取って、首を自分の長刀(なぎなた)の先に貫き刺して、大将首を取ったと声をあげた)

乙畑城はその際に落城したが、その後、結城勢は撤退したため、義尾の嫡子[4]義勝を城主として、再び再興塩谷氏の支城として復帰している。

脚注

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  1. ^ 『ふるさと矢板のあゆみ』掲載 小幡塩谷氏略系図
  2. ^ 次男とされているが、秋田塩谷系譜では、次男を『盛綱』とし義尾の名はなく、塩谷盛綱(塩谷長門守)の文書も残っているので実在性があり、この盛綱と義尾が同一人物ならば次男となるが、関連性が証明されないので確定出来ない。
  3. ^ 矢板市郷土文化研究会編 『郷土読本』第2集 掲載
  4. ^ 但し、庶子の長子小幡弾正がいたため次男

参考資料

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  • 矢板市史編集委員会編 『矢板市史』矢板市、1981年。
  • 矢板市教育委員会編 『ふるさと矢板のあゆみ』矢板市、1989年。
  • 矢板市郷土文化研究会編 『郷土読本』第2集、矢板市郷土文化研究会、1985年。