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塩川長満

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
塩川 長満
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文7年(1538年
死没 天正14年10月5日1586年11月15日
別名 塩河長満
戒名 永祥院殿輝山源光大居士
墓所 兵庫県川西市笹部の鶴林山大昌寺
官位 伯耆守
主君 細川晴元三好一党)→織田信長
氏族 塩川氏
父母 父:塩川国満、母:伊丹親永娘・龍照院
兄弟 運想軒、長満、虎子(塩川頼宗室)
足利義輝娘?
愛蔵(頼面?)、鈴(織田信忠側室)、池田元助後室
養子:辰千代
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塩川 長満(しおかわ ながみつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将伊丹親興は従兄弟にあたる。

生涯

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天文7年(1538年)、摂津国国人塩川国満の子として誕生。母は継室の伊丹氏(龍照院)。

はじめ三好氏に属したが、永禄11年(1568年)、上洛した織田信長に従属。2万石を安堵された。同年8月、信長の野田・福島攻囲戦にも従っている。天正元年(1573年)、室町幕府15代将軍足利義昭と信長が対立すると、『尋憲記』に義昭に味方した松永久秀の与党に「シヲカワ」(正しくは「シホカハ」)が載せられていることから織田氏と敵対したようだが、天正3年(1575年)には京都相国寺に信長を訪問して馬を与えられているので、ほどなく信長に降ったと推測される。またこの頃、摂津の一職守護であった荒木村重に属したとみられる。

天正6年(1578年)、村重が謀叛を起こすとそれに従うが高山右近中川清秀らが信長に降ると長満もそれに従い、有岡城攻めに参加。天正8年(1580年)の花隈城攻めにも加わった。同年9月17日、対立する近隣の豪族・能勢頼道を多田に誘殺した。これは能勢が信長の召し出しに応じなかったためとされる。天正9年(1581年)8月、他の摂津衆や池田恒興と共に、明智光秀の与力として中国地方出陣の命が下され、同年9月には鳥取城攻めに援軍を派遣している。天正10年(1582年)5月にも中国攻めの命が下るが、これは本能寺の変の勃発により中止、長満は羽柴秀吉に書状を出し、畿内の様子を注進。秀吉軍と合流して、山崎の戦いでは先鋒となって活躍した。

天正14年(1586年)、6月頃より重病となり、10月5日に病死(『高代寺日記』)。長満には実子・愛蔵と養子・辰千代がいたが、後継者争いの末に愛蔵が跡を継いだものの、その冬のうちに塩川家は取り潰しになったという。また『多田雪霜談』では、かねてから遺恨があり紛争を重ねてきた能勢氏に対し、当主の能勢頼次九州征伐で不在の間にその領地を襲ったため、秀吉に咎められて片桐且元池田輝政堀尾吉晴に攻められて自刃したという逸話を記している。

娘が信長の嫡男・織田信忠に嫁いでおり、織田秀信の生母とする説もある[1]

脚注

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出典

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  1. ^ 中西 2019, p. 216.

参考文献

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  • 谷口克広『織田信長家臣人名事典【第二版】』(吉川弘文館、2010年)ISBN 4642014578 
  • 中西裕樹『戦国摂津の下克上 高山右近と中川清秀』戎光祥出版〈中世武士選書 第41巻〉、2019年8月8日。ISBN 978-4-86403-331-2 

外部リンク

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