古橋美知子
表示
(塩川美知子から転送)
| |||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
基本情報 | |||||||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||||||
生年月日 | 1951年1月22日(73歳) | ||||||||||||||
出身地 | 島根県松江市 | ||||||||||||||
ラテン文字 | Michiko Furuhashi | ||||||||||||||
身長 | 172cm | ||||||||||||||
体重 | 63kg | ||||||||||||||
血液型 | B型 | ||||||||||||||
選手情報 | |||||||||||||||
ポジション | セッター | ||||||||||||||
利き手 | 右 | ||||||||||||||
|
古橋 美知子(ふるはし みちこ、女性、旧姓:塩川、1951年(昭和26年)1月26日 - )は、日本の元バレーボール選手。
来歴
[編集]島根県松江市出身。「他に部活がなくて」小学5年よりバレーボールを始める。四天王寺高校を経て、1969年(昭和44年)に日本リーグのユニチカ貝塚(当時)に入部。
1970年(昭和45年)に全日本メンバーに選出され、1970年(昭和45年)の世界選手権銀メダル、1972年(昭和47年)のミュンヘンオリンピック銀メダルを獲得した。
一方国内では、1973年(昭和48年)からチーム主将を務め、1976年(昭和51年)の第9回日本リーグにおいてサーブ賞を獲得し、チーム準優勝に大きく貢献した。同年ユニチカを退職し、山陰中央新報に就職。鳥取、島根両県の小中学生やママさんバレーの指導を担った[1]。
1977年(昭和52年)に結婚するが、バレーボール指導者として足りなかった理論(スポーツ心理・トレーニング論など)を学ぶために、1978年(昭和53年)に東京の日本体育大学体育学部体育学科に単身で入学する。学生チームのセッターとして、同年のアジア大会や1979年(昭和54年)のユニバーシアードメキシコシティ大会などに出場し活躍した。在学中の1980年(昭和55年)に、2枚セッターとしてモスクワ五輪の代表メンバーに選出されるも日本政府が出場をボイコットし、悲願であった2度目のオリンピック出場はならなかった。
球歴
[編集]所属チーム
[編集]- 島根大学教育学部附属小
- 島根大学教育学部附属中
- 四天王寺高校
- ユニチカ貝塚/ユニチカ(1969-1976年)
- 日本体育大学(1978-1982年)
受賞歴
[編集]- 1976年 - 第9回日本リーグ サーブ賞
脚注
[編集]- ^ 月刊バレーボール 1978年4月号 158ページ
参考文献
[編集]- 月刊バレーボール 1980年5月号臨時増刊 75ページ