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塚堂古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
塚堂古墳
別名 徳丸古墳
所属 若宮古墳群
所在地 福岡県うきは市吉井町徳丸・宮田
位置 北緯33度20分44.65秒 東経130度46分24.90秒 / 北緯33.3457361度 東経130.7735833度 / 33.3457361; 130.7735833座標: 北緯33度20分44.65秒 東経130度46分24.90秒 / 北緯33.3457361度 東経130.7735833度 / 33.3457361; 130.7735833
形状 前方後円墳
規模 墳丘長91m
高さ8m(後円部)
埋葬施設 後円部:横穴式石室
   (内部に組合式石棺)
前方部:横穴式石室
出土品 銅鏡・玉類・武器・甲冑・馬具・埴輪
築造時期 5世紀後半
史跡 なし
特記事項 1墳丘2石室
地図
塚堂古墳の位置(福岡県内)
塚堂古墳
塚堂古墳
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300 m
塚堂古墳
.
若宮古墳群分布図

塚堂古墳(つかんどうこふん)は、福岡県うきは市吉井町徳丸・宮田にある古墳。形状は前方後円墳。若宮古墳群を構成する古墳の1つ。史跡指定はされていない。

概要

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若宮古墳群一覧
古墳名 墳丘 埋葬施設 築造時期 史跡 備考
月岡古墳 前方後円墳 95m 竪穴式石室ほか
(長持形石棺)
5c中 なし 出土品は重要文化財
塚堂古墳 前方後円墳 91m 横穴式石室2基 5c後半 なし
日岡古墳 前方後円墳 74m 横穴式石室 6c初頭 国史跡 装飾古墳

福岡県南部、筑後川南岸の台地上に築造された古墳である。月岡古墳日岡古墳とともに若宮古墳群を形成する。昭和28年大水害復旧工事の際に後円部墳丘は大きく採土されている。1934年昭和9年)・1956年(昭和31年)に前方部石室が、1955年(昭和30年)に後円部石室が発掘調査され、1979年(昭和54年)以降に墳丘・周濠の発掘調査が実施されている。

墳形は前方後円形で、墳丘主軸を東西方向として、前方部を西方向に向ける。墳丘外表では河原石による葺石のほか、円筒埴輪形象埴輪(人物・動物・盾形・靫形・蓋形・家形埴輪)が認められる[1]。墳丘周囲には二重の盾形の周濠が巡らされている。内濠・内堤・外濠は幅8-10メートル・深さ1.5メートルを測り、濠の斜面には墳丘同様の葺石が認められ、濠内は水をたたえたとみられる[1]。埋葬施設は、後円部・前方部における横穴式石室各1基である。いずれも古式の横穴式石室であり、後円部石室(1号石室、非現存)は大きく破壊された状態で、前方部石室(2号石室、現存・調査後埋め戻し)は未盗掘の状態でそれぞれ発掘調査がなされ、銅鏡・玉類・武器・甲冑・馬具など多数の副葬品が検出されている。特に、前方部石室の馬具の年代が先代の月岡古墳の時期に近く、先代から受け継いで副葬された可能性がある点、前方部石室からは武器・武具が多い一方で、後円部石室からは装飾具が多く出土している点で特色を示す[2]

築造時期は、古墳時代中期の5世紀後半ごろと推定される。若宮古墳群では月岡古墳に後続し、日岡古墳に先行する時期に位置づけられる。月岡古墳が畿内ヤマト王権との強いつながりを示すのに比して、畿内色が薄れ在地色が強まりつつある様相を示す古墳である[2]

遺跡歴

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  • 寛文3年(1663年)、長野堰水門工事の際に大石を持ち去ったと伝承(後円部石室石材か)[3]
  • 1934年昭和9年)、家屋新築に伴う前方部石室の発見・調査:第1次(宮崎勇蔵ら、19351938年に「徳丸古墳」・「俗称塚堂古墳」として報告)[3]
  • 1955年(昭和30年)、昭和28年大水害復旧工事の後円部墳丘採土に伴う後円部石室の応急調査:第2次(浮羽高校考古学部、1983年報告に収録)[3]
  • 1956年(昭和31年)、前方部石室内・閉塞石前面の調査:第3次(浮羽高校考古学部、1983年報告に収録)。
  • 1979年(昭和54年)、県営圃場整備事業に伴う墳丘北・東側外周の発掘調査:第4次(福岡県教育委員会、1982年に報告)。
  • 1979年(昭和54年)、国道210号浮羽バイパス建設工事に伴う周濠部の発掘調査:第5次(福岡県教育委員会、1983年に報告)[3]
  • 1981年(昭和56年)、県営圃場整備事業に伴う墳丘西側外周の発掘調査:第6次(福岡県教育委員会、1983年に報告)[3]

墳丘

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墳丘の規模は次の通り。

  • 墳丘長:約91メートル[4](残存70メートル)
  • 後円部
    • 直径:約64メートル[4]
    • 高さ:約8メートル[1]
  • 前方部
    • 幅:推定約68メートル
    • 高さ:約7.5メートル[1]

埋葬施設

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埋葬施設としては、後円部・前方部のそれぞれにおいて横穴式石室が構築されている。いずれも古式の石室である。

後円部石室(1号石室)は、大きく破壊された状態で発見されている(非現存)。前方部石室よりも一回り大きい規模で、南西方向(くびれ部方向)に開口したとみられる。内部に組合式石棺を据えており、石棺片が出土しているほか、多数の副葬品が検出されている[1]

前方部石室(2号石室)は、発見時は未盗掘のほぼ完存状態であった(現在は埋め戻し)。単室構造の石室で、西方向に開口し、玄室は長さ約3.1メートル・幅約1.6メートル・高さ約1.9メートルを測る。割石の小口積みによって構築され、壁面には赤色顔料が塗布される。奥壁と両側壁には刀・鉾を載せる突起があったという(非現存)。石室内では、首飾りをして貝製の腕輪を右手にはめた壮年男性の人骨とともに、多数の副葬品が検出されている[1]

出土品

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2号石室 短甲
東京国立博物館展示。
2号石室 短甲
吉井歴史民俗資料館展示。
1号石室 三環鈴
吉井歴史民俗資料館展示。

塚堂古墳の石室内で検出された副葬品は次の通り[3]

後円部石室(1号石室)
(1955年)
前方部石室(2号石室)
(1934・1956年)
玄室 閉塞石前面
装身具 仿製鏡 7
硬玉製勾玉 3
ガラス製勾玉 2
ガラス製管玉
ガラス製小玉
ガラス製臼玉
ガラス製粟玉
珪岩製玉 1
金銅鈴 1
仿製神獣鏡 1
ガラス製管玉 6
貝釧 1
滑石製品 扁平勾玉(剣形品?) 3
有孔円板 5
臼玉 多数
有孔円板 4+1
臼玉 720余
武器 鉄鏃 多数
鉄刀
鉄剣
鉄鉾 1
直刀 9
鉄鉾 2
鉄鏃 多数
鉄鏃
武具 小札甲
胡簶金具
横矧板鋲留衝角付冑 1
横矧板革綴短甲 1
横矧板鋲留短甲 1
三角板鋲留短甲 1
小札甲 1
小札
横矧板鋲留衝角付冑 1+?
頸甲 1
肩甲 1
馬具 鞍金具
木芯鉄板張輪鐙
鉄地金銅張剣菱形杏葉
三鈴付環鈴 1
鉸具
鉸具 3 轡 1
鉄製鞍 1
木芯鉄板張輪鐙 1双
雲珠 2
雲珠 2
鉸具 5
農工具 刀子 1 タガネ? 1
その他 朱?塊
金銅鋲留金具
鉄製端止金具
金銅有孔円板
銅鋺?
獣骨片
土師器片
砥石 1

後円部石室では装飾具が多く出土したのに対して、前方部石室では武器・武具が多く出土した点で特色を示す[2]。また、前方部出土の馬具は月岡古墳のものと年代が近く、先代から受け継いで副葬した可能性が指摘される[2]

関連施設

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  • 吉井歴史民俗資料館(うきは市吉井町) - 塚堂古墳の出土品を保管・展示。
  • 東京国立博物館(東京都台東区) - 塚堂古墳の出土品を保管。

脚注

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  1. ^ a b c d e f 史跡説明板。
  2. ^ a b c d 吉井歴史民俗資料館展示解説。
  3. ^ a b c d e f 塚堂遺跡I 1983.
  4. ^ a b 筑後川流域装飾古墳同時公開解説シート。

参考文献

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(記事執筆に使用した文献)

  • 史跡説明板(うきは市教育委員会、2007年設置)
  • 筑後川流域装飾古墳同時公開解説シート
  • 塚堂古墳の調査」『塚堂遺跡I -福岡県浮羽郡吉井町所在遺跡の調査-』福岡県教育委員会〈一般国道210号線浮羽バイパス関係埋蔵文化財調査報告第1集〉、1983年http://doi.org/10.24484/sitereports.57503  - リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」。
  • 大塚初重「塚堂古墳」『日本古墳大辞典東京堂出版、1989年。ISBN 4-490-10260-7 
  • 「若宮古墳群」『福岡県の地名』平凡社日本歴史地名大系41〉、2004年。ISBN 4-582-49041-7 

関連文献

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(記事執筆に使用していない関連文献)

  • 田中幸夫「筑後千年村徳丸古墳前方部石室に於ける埋葬の状と遺物の一二」『考古學雜誌』第25巻第1号、考古學會、1935年1月15日、037-042頁。 
  • 「筑後国浮羽郡千年村徳丸塚堂古墳」『史蹟名勝天然紀念物調査報告書』 第10輯、福岡県、1938年。 
  • 『吉井町誌』 第1巻、吉井町、1977年。 
  • 『塚堂古墳 -福岡県浮羽郡吉井町宮田所在古墳の調査-』吉井町教育委員会〈吉井町文化財調査報告書第1集〉、1982年。 
  • 『若宮古墳群1 -月岡古墳・塚堂古墳・日岡古墳-』吉井町教育委員会〈吉井町文化財調査報告書第4集〉、1989年。 
  • 『若宮古墳群2 -塚堂古墳・日岡古墳-』吉井町教育委員会〈吉井町文化財調査報告書第6集〉、1990年。 

関連項目

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外部リンク

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