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尭恕法親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
堯恕法親王から転送)
堯恕法親王
尭恕法親王像(妙法院蔵)
続柄 後水尾天皇第十皇子

全名 完敏(さだとし)
称号 照宮、獅子吼院
身位 法親王
出生 寛永17年10月16日1640年11月29日
死去 元禄8年4月16日1695年5月28日)(享年56)
埋葬 法住寺
父親 後水尾天皇
母親 園国子
役職 妙法院門跡
天台座主
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堯恕法親王(ぎょうじょ ほっしんのう、寛永17年10月16日1640年11月29日) - 元禄8年4月16日1695年5月28日))は、江戸時代前期の皇族後水尾天皇の第十皇子。母は園基音の娘・新広義門院園国子天台宗延暦寺別院妙法院門跡。幼名は照宮完敏(さだとし)。字は体素。号は逸堂

来歴

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正保4年(1647年)12月尭然法親王の資として妙法院に入室。慶安3年(1650年)2月親王宣下を受け、8月得度して妙法院門跡を相続した。

寛文3年(1663年一身阿闍梨護持僧となり、10月天台座主に補任。同5年(1665年)7月二品に叙された。延宝4年(1676年)2月天台座主に還任したが、わずか半年ほどで辞任。同7年(1679年)11月三たび天台座主に補任される。

元禄4年(1691年)11月寺内に隠居所の鉄龍庵を建てて移り住んだ。同6年(1693年)6月座主職を甥の公弁法親王に譲り、8月隠居の勅許を得て、以後獅子吼院と号した。同8年(1695年4月16日に隔噎[注釈 1]のため薨去享年56。危篤でも普段と劣らない筆勢で遺偈を記し、自ら臨終の法事まで修めたという。同月25日法住寺に葬られた。

日記は『寛元録』『逸堂座主日記』とも称し、寛文3年から元禄8年まで32年間の自筆本が妙法院に現存する。

人物

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天台教学の研究や経典の講習に専念し、『僧伝排韻』『五部大乗経捷径録』など編著は多い。詩歌や連歌、書道・絵画・挿花などへの造詣も深く、漢詩集として『逸堂集』が残る。特に絵画では狩野探幽から手ほどきを受け、後水尾法皇の寿像を多く手掛けたことで知られる。法皇からの注文を取り次いだ鳳林承章の日記によれば、顔の部分を尭恕法親王が描き、それ以外の袈裟や畳・御茵(敷物)などを探幽が描いたという[1]

貞享4年(1687年)の東山天皇再興大嘗祭を、あまりにも簡略化されすぎており「神を欺くもの」だとして批判している[2]

脚注

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注釈

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  1. ^ 飲食物が喉に詰まる病気。

出典

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  1. ^ 『隔蓂記』, 寛文4年6月2日条
  2. ^ 藤田(2018), p. 115.

参考文献

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  • 村山修一<論説>妙法院門跡堯恕法親王とその時代」『史林』第56巻第4号、史学研究会、1973年7月1日、491-535頁、doi:10.14989/shirin_56_491hdl:2433/238146 
  • 藤田覚『天皇の歴史6 :江戸時代の天皇』講談社講談社学術文庫〉、2018年5月10日。ISBN 978-4065116401 
  • 鳳林承章, 赤松俊秀『隔蓂記』鹿苑寺〈全3巻〉、1958年。国立国会図書館書誌ID:000000872569https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000872569。「国立国会図書館デジタルコレクション」  Wikipedia 記事の同名記事は、隔蓂記