堤哲長
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時代 | 江戸時代末期 |
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生誕 | 文政10年12月22日[1](1828年2月7日) |
死没 | 明治2年4月4日[1][注 1](1869年5月15日) |
改名 | 初麿(幼名)[1]→哲長 |
別名 | 通称:大膳大夫、右京大夫、右兵衛督[2] |
官位 | 正三位、右京大夫 |
主君 | 仁孝天皇→孝明天皇→明治天皇 |
氏族 | 堤家 |
父母 |
父:堤維長、母:清閑寺貞子(清閑寺昶定の三女) 養父:堤言長 |
妻 | 芝野(山本縫殿の長女) |
子 |
松崎万長、亀井茲明、雅長、津守国敏 養子:功長 |
堤 哲長(つつみ あきなが)は、幕末の公家。通称は大膳大夫、右京大夫、右兵衛督。
経歴
[編集]山城国京都で、堤維長の長男として生まれ、従兄弟堤言長の養子となる[1][2]。天保12年12月14日(1842年1月25日)に元服し昇殿を許され大和権介に任じられる[2][3]。嘉永6年1月21日(1853年2月28日)大膳大夫、元治元年7月10日(1864年2月28日)右京大夫を経て、明治2年3月、右兵衛督となる[2][3]。この間、文久3年8月(1863年)近習、その後、四次にわたって議奏加勢を務める[2]。
慶応4年1月(1868年)林和靖間詰[2]を経て、同年2月20日(1868年3月13日)参与、制度事務局補となる[2][4]。同年閏4月(5-6月)近習に転じた[2]。
岸派の絵を得意としたとされ、「歌絵」(勝興寺蔵[5][6])、「孝明天皇尊影」(泉涌寺蔵[7])などの作品が残っている。
系譜
[編集]- 父:堤維長
- 母:清閑寺貞子(清閑寺昶定三女)[1][2]
- 養父:堤言長
- 妻:山本芝野(清容院、山本縫殿長女)[1]
- 二男:松崎万長(甘露寺勝長養子)[1]
- 三男:亀井茲明(亀井茲監養子)[1]
- 養子:堤功長(甘露寺愛長五男、貴族院子爵議員)[1]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『明治維新人名辞典』636頁では明治2年3月4日没。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 修史局編『百官履歴 上巻』日本史籍協会、1928年。
- 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
- 橋本政宣編『公家事典』吉川弘文館、2010年。