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堤哲長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
堤哲長
時代 江戸時代末期
生誕 文政10年12月22日[1]1828年2月7日
死没 明治2年4月4日[1][注 1]1869年5月15日
改名 初麿(幼名)[1]→哲長
別名 通称:大膳大夫、右京大夫、右兵衛督[2]
官位 正三位右京大夫
主君 仁孝天皇孝明天皇明治天皇
氏族 堤家
父母 父:堤維長、母:清閑寺貞子(清閑寺昶定の三女)
養父:堤言長
芝野(山本縫殿の長女)
松崎万長亀井茲明雅長津守国敏
養子:功長
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堤 哲長(つつみ あきなが)は、幕末公家。通称は大膳大夫、右京大夫、右兵衛督。

経歴

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山城国京都で、堤維長の長男として生まれ、従兄弟堤言長の養子となる[1][2]天保12年12月14日1842年1月25日)に元服し昇殿を許され大和権介に任じられる[2][3]嘉永6年1月21日1853年2月28日)大膳大夫元治元年7月10日1864年2月28日)右京大夫を経て、明治2年3月、右兵衛督となる[2][3]。この間、文久3年8月1863年)近習、その後、四次にわたって議奏加勢を務める[2]

慶応4年1月1868年)林和靖間詰[2]を経て、同年2月20日(1868年3月13日)参与、制度事務局補となる[2][4]。同年4月(5-6月)近習に転じた[2]

岸派の絵を得意としたとされ、「歌絵」(勝興寺[5][6])、「孝明天皇尊影」(泉涌寺[7])などの作品が残っている。

系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^ 『明治維新人名辞典』636頁では明治2年3月4日没。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i 『平成新修旧華族家系大成』下巻、111-112頁。
  2. ^ a b c d e f g h i 『明治維新人名辞典』636頁。
  3. ^ a b 『公家事典』559頁。
  4. ^ 『百官履歴 上巻』374頁。
  5. ^ 歌絵 - ADEAC(アデアック):デジタルアーカイブシステム
  6. ^ 富山市佐藤記念美術館編集発行 『特別展 とやまの寺宝 ―花鳥山水 お寺に秘された絵画たち―』 2014年10月4日、第20図。
  7. ^ 朝日新聞社文化企画局大阪企画部編集・発行 『皇室の御寺 泉涌寺展』 1990年、第47図。

参考文献

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  • 修史局編『百官履歴 上巻』日本史籍協会、1928年。
  • 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
  • 橋本政宣編『公家事典』吉川弘文館、2010年。