堀部勝綱
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堀部 勝綱(ほりべ かつつな、天正8年(1580年) - 寛永6年5月3日(1629年6月23日))は、江戸時代前期の武士。赤穂四十七士の堀部金丸の父。通称は弥平次(やへいじ)、ついで弥兵衛(やへえ)。幼名は宗千代。初名は昌良。父は堀部助左衛門。
堀部家は近江守護職六角氏の家臣の家柄である。六角氏は織田信長によって滅ぼされた。父助左衛門は浪人の後、浅野長重に仕官した。勝綱はその跡を継いで浅野長直に仕えた。寛永6年(1629年)に江戸において死去。享年50。
妻は不詳であるが、男子が5人(堀部成勝・堀部市助・堀部勝重・青地与五兵衛・堀部金丸)、女子が3人いた。うち堀部家の家督を継いだのは末子の堀部金丸であった。