コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

堀秀信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
堀 秀信
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正15年(1587年
死没 寛永4年6月18日1627年7月30日
戒名 元郭
墓所 天徳寺(東京都港区西久保)
官位 従五位下因幡守
幕府 江戸幕府旗本
主君 豊臣秀吉秀頼徳川秀忠家光
氏族 新庄氏(秀郷流)→堀氏
父母 父:新庄直頼、母:佐久間盛重の娘
養父:堀秀村
兄弟 直定直綱秀信直房、女(柴田帯刀室)
秀嵩
テンプレートを表示

堀 秀信(ほり ひでのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将旗本官位従五位下因幡守

略歴

[編集]

天正15年(1587年)、新庄直頼の三男として誕生。のちに堀秀村の養子となり、豊臣秀吉より偏諱を受けて秀信と称した[1][2]

文禄3年(1594年)、徳川家康秀忠父子が直頼の屋敷に訪問した際、家康より左文字の脇差を、秀忠からは一文字の太刀を与えられた[1][2]

慶長4年(1599年)に家督を継ぎ、従五位下・因幡守に叙任される[3][2]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属したため所領を没収されるが[3]、慶長10年(1605年)11月、秀忠に拝謁し、翌慶長11年(1606年)、下総国匝嵯香取2郡のうち1,000石を与えられて御書院番頭となる[1][2]

大阪の陣では水野忠清の組に属した[1][2]

寛永元年(1624年1月19日目付に任ぜられて500石を加増された[1][2]

寛永4年(1627年)6月18日、死去。享年41[1][2]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f 阿部 1990, p. 701.
  2. ^ a b c d e f g 堀田 1923, p. 1210-1211.
  3. ^ a b 高柳 & 松平 1981, p. 218.

参考文献

[編集]
  • 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年、701頁。ISBN 4404017529 
  • 堀田正敦「国立国会図書館デジタルコレクション 堀」『寛政重脩諸家譜. 第4輯』國民圖書、1923年、1210-1211頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082713/614 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』(増訂版)吉川弘文館、1981年、218頁。