秋月正夫
あきづき まさお 秋月 正夫 | |
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本名 | 堀田 金蔵 |
別名義 | 堀田 金星 |
生年月日 | 1896年3月3日 |
没年月日 | 1968年3月20日(72歳没) |
出生地 | 日本 東京府(現在の東京都) |
職業 | 歌手、俳優 |
ジャンル | オペラ、サイレント映画、トーキー、新国劇 |
活動期間 | 1916年 - |
主な作品 | |
演劇 『荒神山』 『国定忠治』 『王将』 |
秋月 正夫(あきづき まさお、1896年3月3日 - 1968年3月20日[1])は、日本の俳優である。堀田 金星(ほった きんぼし)の名でデビュー、浅草オペラの歌手として人気を博し、松竹蒲田撮影所でのサイレント映画に出演した[1]。本名は堀田 金蔵(-きんぞう)、秋月は戦後の芸名である。
人物・来歴
[編集]1896年(明治29年)3月3日、東京府(現在の東京都)に堀田金蔵として生まれる[1]。
1916年(大正5年)、20歳のころにジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシー率いる赤坂・ローヤル館の『オペラ・クリスピー』で初舞台を踏み、「堀田金星」を名乗る[1]。ローヤル館は、1919年(大正8年)2月には解散となる。同年5月、松竹が浅草公園六区の浅草オペラに乗り出し、「新星歌舞劇団」を結成、堀田はこれに参加した。1920年(大正9年)8月、根岸興行部に引き抜かれ、「根岸大歌劇団」の結成に参加した。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で浅草一帯は壊滅し、同歌劇団の依拠した金龍館も被災した。1924年(大正13年)3月、同劇団は解散した。
松竹蒲田撮影所に入社し[1]、1926年(大正15年)4月30日公開の映画『孔雀の光』の「藤原家堺町中納言」役でスクリーンデビューした。翌年1927年(昭和2年)8月26日公開の『木曾心中』まで14本に出演した。
1929年(昭和4年)、沢田正二郎没後の新国劇に入団、「秋月正夫」と名を変え、辰巳柳太郎、島田正吾とともに、長老格となった[1]。『荒神山』の「安濃徳」役、『国定忠治』の「川田屋惣次」役、『王将』の「金杉子爵」役を得意とした[1]。戦後は秋月の名で映画やテレビ映画に出演した。
1968年(昭和43年)3月20日、死去した[1]。満72歳没。
フィルモグラフィ
[編集]堀田金星
[編集]- 『孔雀の光 第三、四、五篇』、松竹蒲田撮影所、1926年4月30日 - 「藤原家堺町中納言」役
- 『孔雀の光 第六篇』、松竹蒲田撮影所、1926年5月14日 - 「藤原家堺町中納言」役
- 『唐人殺し』、松竹蒲田撮影所、1926年7月24日
- 『怒りの刃』、松竹蒲田撮影所、1926年9月1日
- 『清水次郎長全伝 安政殺人剣の巻』、松竹蒲田撮影所、1926年10月15日
- 『清水次郎長全伝 後篇 阿修羅復讐の巻』、松竹蒲田撮影所、1926年11月20日
- 『幻の義賊』、松竹蒲田撮影所、1926年12月1日 - 「与力岡倉浪之助」役
- 『幡随院長兵衛』、松竹蒲田撮影所、1927年1月5日
- 『赤尾林蔵』、松竹蒲田撮影所、1927年1月29日
- 『馬子のお時』、松竹蒲田撮影所、1927年3月4日
- 『幕末三浪人』、松竹蒲田撮影所、1927年4月
- 『白虎隊』、松竹蒲田撮影所、1927年6月26日 - 「松平容保」役
- 『悲願千人斬』、松竹蒲田撮影所、1927年7月8日 - 「弟 土岐青九郎」役
- 『木曾心中』、松竹蒲田撮影所、1927年8月26日
秋月正夫
[編集]- 『武蔵と小次郎』、松竹京都撮影所、1952年10月15日 - 「岩間角兵衛」役
- 『国定忠治』、日活、1954年6月27日 - 「代官 武部源藩」役
- 『沓掛時次郎』、日活、1954年7月27日 - 「亭主安兵衛」役
- 『地獄の剣豪 平手造酒』、日活、1954年10月19日 - 「笹川繁蔵」役
- 『初姿丑松格子』、日活、1954年11月30日 - 「妓夫」役
- 『六人の暗殺者』、日活、1955年6月5日 - 「万屋佐吉」役
- 『王将一代』、新東宝、1955年10月2日
- 『関の弥太ッぺ』、新東宝、1955年11月22日 - 「沢井屋金兵衛」役
- 『白野弁十郎』、KRT、1957年1月14日
- 『日本のいちばん長い日』、東宝、1967年8月3日
ビブリオグラフィ
[編集]- 『蛙の寝言』、山ノ手書房、1956年