城祐万
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名前 | ||||||
カタカナ | ジョウ ユウマン | |||||
ラテン文字 | JO Yuman | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1966年8月13日(58歳) | |||||
出身地 | 熊本県 | |||||
身長 | 173cm[1] | |||||
体重 | 66kg[1] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
ユース | ||||||
東海大学第五高校 | ||||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1984-1992 | 住友/鹿島アントラーズ | |||||
代表歴 | ||||||
1982 | 日本Jrユース | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
城 祐万(じょう ゆうまん、1966年8月13日 - )は、熊本県出身の元サッカー選手、指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー。
来歴
[編集]東海大学第五高校在学時の1982年に日本ジュニアユース代表に選ばれ、シンガポールで行われたライオンシティカップに出場した[2]。
卒業後の1984年に日本サッカーリーグの住友金属工業蹴球団に加入。JSL1部では通算12試合に出場し1得点を記録した[3]。1992年に住金が鹿島アントラーズへ移行した後も在籍し[1]、同年6月28日に行われたPJMフューチャーズとのプレシーズンマッチに出場したが、トップチームでの公式戦出場の機会はなかった[4]。
引退後は鹿島の育成組織のコーチを経てフロントに入り、地域連携グループ長などを務めている[5][6][7]。
個人成績
[編集]国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1984 | 住金 | JSL2部 | |||||||||
1985 | JSL1部 | ||||||||||
1986 | JSL2部 | ||||||||||
1987-88 | JSL1部 | ||||||||||
1988-89 | |||||||||||
1989-90 | JSL2部 | ||||||||||
1990-91 | |||||||||||
1991-92 | 14 | ||||||||||
1992 | 鹿島 | - | J | - | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
通算 | 日本 | J | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
日本 | JSL1部 | 12 | 1 | ||||||||
日本 | JSL2部 | ||||||||||
総通算 |
脚注
[編集]- ^ a b c 「Jリーグ・カップ登録メンバーリスト」『サッカーマガジン』 1992年10月号、ベースボール・マガジン社、86頁。
- ^ 国吉好弘『日本サッカーユース代表の誇り-アンダーを紐解く』ベースボール・マガジン社、2013年、201頁。ISBN 978-4-583-10611-3。
- ^ 「日本サッカーリーグ全史」編集委員会編『日本サッカーリーグ全史』日本サッカーリーグ、1993年、256頁。
- ^ 鹿島アントラーズFC『鹿島アントラーズ栄光の10年 Football dream 1992-2001』ベースボール・マガジン社、2001年、174-175頁。ISBN 4-583-03667-1。
- ^ “2018年02月03日 民泊で地域活性化「アントラーズホームタウンDMO民泊説明会」”. 鹿嶋市広報推進課 (2018年2月3日). 2020年11月28日閲覧。
- ^ “鈴木満強化部長が激闘を制した昨シーズンを振り返り”. いばナビ. 株式会社 日宣メディックス (2019年3月). 2020年11月28日閲覧。
- ^ “株式会社鹿島アントラーズFC”. 茨城県教育委員会 (2019年3月). 2020年11月28日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 城祐万 - Transfermarkt.comによる選手データ