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坪倉鹿太郎

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坪倉鹿太郎
坪倉鹿太郎の伝記『一畳亭米山』

坪倉 鹿太郎(つぼくら ろくたろう、1856年安政3年) - 1921年大正10年))は、鳥取県日野郡の郷土史家で地方史編纂の先駆者。『凶年の後悔』『日野山桜』『日野郡野史』などの著書を残した。

米山(べいざん)、平六(へいろく)、「一畳亭」(いちじょうてい)とも号したが、いずれの文字も左右均整となっており、それは坪倉鹿太郎の几帳面な性格の表れだったという[1]

「つぼくら しかたろう」と紹介している文献もあるが、これは誤りである。本人が1934年(大正9年)に作成した書類に捺印があり、印には平仮名で「ろくたろう」と刻まれている[2]

生涯

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1856年(安政3年)7月28日、鳥取県日野郡佐木谷村(現・日南町佐木谷)の農家に生まれる。坪倉家は尼子家臣の流れを汲むとされ、村役人などを務める家系であった。幼い頃から文学を好み、十代半ばで隣村である茶屋村(現・日南町茶屋)の吏員となった。

農業や造林の知識があったことから、その後、二部村にあった日野郡役所で郡書記として勤務した[3]。1898年(明治31年)、岡島正潔の命を受け、奈良県吉野地方の林業の現地調査を行い、林業経営について研究を行った[4]

一方で、日野郡の歴史に関心を持ち、調べたことを書き留め、また、古文書を写し、伝説を記録にとどめていった。日野郡役所を辞した後、これらを書籍にまとめ、郡内に無償で配布していた。

日野郡役所は1912年(明治45年)に郡史編纂事業に着手しており、1913年(大正2年)1月、日野郡長の井上廉治は坪倉を郡史調査委員に任命する。翌年3月、当時の入江澄郡長は「事業の進捗遅々たるを遺憾となし」坪倉を解嘱する[5]。任を解かれた後も、坪倉は郡史に関する調査・史料の収集を進め、1917年(大正6年)11月に『日野郡野史』を完成させ、郡役所に献納した。

和歌を好み、生涯に1万7千もの歌を詠んだ[6]。『日野郡史』にも「日野路案内」として、郡内の村ごとに、村名や神社名、風物等を詠み込んだ坪倉の和歌が紹介されている[7]

1921年(大正10年)3月31日に66歳で死去した。

『日野郡野史』の編纂

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郷土史家としての最大の功績は『日野郡野史』の編纂である。郡史調査委員の任を解かれた後、『野史』の編纂を勧めたのは、後に郡史の編纂委員に任ぜられた同郷の内藤岩雄[8]である[9]。これは、幕末の国学者・歴史家、飯田忠彦の『大日本野史』に想を得たものであった[1]

編纂に足かけ4年をかけた『日野郡野史』は、編年体の史料35巻及び付録1巻の計36巻(1,443枚)からなり、日野郡役所に献納された。『日野郡野史』の完成に際し、坪倉は以下の和歌を残している。

あらうれし 苔の下にて われ聞かむ この書よみて 笑う人声[6]


『日野郡野史』は『日野郡史』(1926年刊行)でも多く引用されており、当時でも貴重な資料であったことがうかがえる。しかし、『日野郡史』編纂に活用された後、所在不明となった。

2013年に日南町内で『日野郡野史』の「巻之六 神社」が発見された。手稿本であり、日野郡役所に献納されたものの一部であるかは不明だが、『日野郡野史』が実在したことを示す唯一の資料である[10]

著作

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『日野郡野史』
『日野郡山桜』
坪倉鹿太郎 (米山) 著『日野山桜』,坪倉米山,明43.1. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/766288
『日野義民伝野田三社巴形』(浄瑠璃)
『凶年の後悔』
坪倉鹿太郎 著『凶年の後悔』,坪倉鹿太郎,明25.11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/838266
『造林の勤め』
『牛馬古老譚』

逸話

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日野郡根雨村(現・日野町根雨)の実業家、近藤寿一郎[11](1880年 - 1958年)は、坪倉鹿太郎が坪内逍遙の『小説神髄』を蔵書していることに驚いたというエピソードを紹介している[12]。近藤の青年時代には、同書はすでに絶版となっており、すぐに借りて読んだという。近藤は、坪倉について「明治維新の新文運を築き上げるには、山の中の僻村にも当時既に斯る理解ある先覚者があった事が、大なる力であった」と述べている。

坪倉は、独特の葬式方法を実践していた。道具一切を自分で整え、五色の旗やチャルメララッパ、白い肩衣に白鉢巻きという出で立ちであっため、吹き出す会葬者もいた[1]。『日野郡史』でも、坪倉の人となりについて「奇行多し」と紹介されている[6]

脚注

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  1. ^ a b c 板 愈良 1929, p. (憶 一畳亭主人).
  2. ^ 谷口房男 2017, p. 108.
  3. ^ 日野郡史(下巻) 1926, p. 1956.
  4. ^ 日野郡史(下巻) 1926, p. 2372.
  5. ^ 日野郡史(上巻) 1926, p. 6.
  6. ^ a b c 日野郡史(下巻) 1926, p. 1957.
  7. ^ 日野郡史(上巻) 1926, p. 16.
  8. ^ 内藤岩雄 - とっとりデジタルコレクション
  9. ^ 内藤は坪倉との関係について「同じひの川の高原に生命を受けたといふ外に、七重八重の内面的な縁(えにし)がまつはつてゐる」と述べている(板 愈良 1929, p.(憶 一畳亭主人)
  10. ^ 谷口房男 2017, p. 79.
  11. ^ 近藤寿一郎 - とっとりデジタルコレクション
  12. ^ 板 愈良 1929, p. (序).

参考文献

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