坂田耳子
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坂田 耳子(さかた の みみこ)は、古墳時代の豪族あるいは皇族。姓は不明。坂田 耳子郞君(さかた の みみこ の いらつきみ)・坂田耳子王(さかたのみみこのおおきみ)ともいう。
出自・経歴
[編集]『新撰姓氏録』「右京神別」によると、坂田氏は「出自諡継体皇子仲王之後也」とあり、『日本書紀』巻第十七にも継体天皇の子で、兎皇子の弟である中皇子を祖であると記されている。
『日本書紀』巻十九によると、欽明天皇32年(571年)3月、新羅に使者として派遣され、任那が滅亡した理由を問わしめている[1]。その後、ほどなくして、欽明天皇は崩御しているた[2]。
その後、『書紀』巻第二十では、敏達天皇14年(585年)3月、天皇の任那再建の思いを受け、使者として派遣されるところであったが、天皇と大臣物部守屋が疱瘡にかかったため、中止されている。この時、天皇は橘豊日皇子(のちの用明天皇)に詔をし、「先帝(欽明天皇)の勅に背かずに、任那復興の政策を勤め修めるべし」と伝えている[3]。この時もほどなくして、敏達天皇は崩御している[4]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『日本書紀』(三)・(四)、岩波文庫、1994年 - 1995年
- 『日本書紀』全現代語訳(下)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1988年
- 『日本古代氏族事典』【新装版】』佐伯有清:編、雄山閣、2015年
- 『「任那」から読み解く古代史 朝鮮半島のヤマト王権』、大平裕、PHP文庫、2017年