坂東彦三郎 (6代目)
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ろくだいめ ばんどうひこさぶろう 六代目 坂東彦三郎 | |
『寿曽我対面の工藤祐経』 | |
屋号 | 音羽屋 |
---|---|
定紋 | 鶴の丸 |
生年月日 | 1886年10月12日 |
没年月日 | 1938年12月28日(52歳没) |
本名 | 1. 寺嶋 英造(出生名)[1] 2. 坂東 英造(養子後) |
襲名歴 | 1. 尾上英造 2. 六代目尾上榮三郎 3. 六代目坂東彦三郎 |
俳名 | 薪水・梅朝・楽善 |
出身地 | 東京府日本橋区浜町 |
父 | 五代目尾上菊五郎
5代目坂東彦三郎 (養父) |
兄弟 | 六代目尾上梅幸(長兄) 六代目尾上菊五郎(次兄)[1] |
子 | 十七代目市村羽左衛門 |
六代目 坂東彦三郎(ろくだいめ ばんどう ひこさぶろう、1886年(明治19年)10月12日 - 1938年(昭和13年)12月28日)は、歌舞伎役者。屋号は音羽屋、定紋は鶴の丸、替紋は八重片喰。俳名には薪水・梅朝・楽善など。本名は坂東 英造(ばんどう えいぞう)。
経歴
[編集]五代目尾上菊五郎と元柳橋の芸者で権妻の秋田ぎん(1926年8月31日没)との間の三男として東京・日本橋浜町に生まれる[2]。1896年(明治29年)1月、尾上英造を名乗って初舞台。1903年(明治36年)3月、九代目市川團十郎のひきにより歌舞伎座で六代目尾上榮三郎を襲名した。その6年後には五代目坂東彦三郎家の養子となり、1915年(大正4年)4月市村座で六代目坂東彦三郎を襲名。以後も一貫して兄の六代目尾上菊五郎一座で脇役として活躍した。
歌舞伎の歴史に詳しく、後進の教育にも力を注いだ。墓所は青山霊園(1イ22-10)と江戸川区大雲寺。
当たり役
[編集]技巧に走らない、風格の大きい芸風だった。
家族
[編集]- 実父・尾上菊五郎 (5代目)
- 兄・尾上梅幸 (6代目)、尾上菊五郎 (6代目)
- 妻・しゅう ‐ 二代目市川團右衛門(中村富十郎 (3代目)の子)の妹[3]
- 妻・君 - 新橋「照近江」の元芸妓。桂太郎の愛妾だったお鯉 (芸妓)に続く二代目お鯉として知られ、西園寺公望の愛妾を務めたのち、彦三郎と一緒になった[4][5]。
- 子・十七代目市村羽左衛門。
人物・エピソード
[編集]歌舞伎役者としてだけでなく、時計愛好家としても知られ、以下のようなエピソードが伝わる。
- 大向こうから「大時計」と掛け声をかけられた[6]。
- 1920年の時の記念日発足を契機に開催された「時」展覧会の事業の一環として、彦三郎は東京天文台長・河合章二郎と東京市内の時計の正確さを調査する市内時計巡検を行ない、逓信省構内郵便局の時計の2分の狂いを報告、この時計巡検は毎年行われ、新聞に結果が掲載された[7][8]。国立科学博物館には彦三郎の標準時計が常設展示されている[9]。
- 東京天文台に設置されていた標準時計(クロノメーター)を自宅にも設置し、NHKラジオで時報が放送されるようになると毎日その誤差を報告するハガキをNHKに送っていた[10][11]。
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ a b 国立劇場調査記録課 編|独立行政法人日本芸術文化振興会 (平成24)2012年1月31日発行『歌舞伎俳優名跡便覧[第四次修訂版]』P.400に掲載。
- ^ 坂東彦三郎(6代目) コトバンク
- ^ 坂東彦三郎人事興信録 第11版(昭和12年) 下
- ^ 『家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 明治・大正篇』 竹内正浩、実業之日本社, 2017、「桂太郎」の章
- ^ 麻布山元町の妾宅で二人お鯉の顔合わせ『財界太平記 続』 柳秀湖 沙羅書房 1948
- ^ 『楽屋のことば』戸板康二、駸々堂、1986、p48
- ^ 1920 年に東京教育博物館で開催された「時」展覧会の出品物の調査井上毅・佐々木勝浩、Bull. Natl. Mus. Nat. Sci., Ser. E, 38, pp. 23–34, December 22, 2015
- ^ 時の記念日100周年企画展「時」展覧会2020明石市立天文科学館
- ^ 坂東彦三郎の標準時計国立科学博物館
- ^ 7/12まで。時計好きは上野の科博に走れ! 100年ぶりの「時」の展覧会が開催中WebChronos, 2020.07.08
- ^ NHKラジオ「伊集院光の百年ラヂオ」 2024年3月17日放送「時計がわりのラジオ・時報と職場のいこい」