坂東又三郎
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坂東 又三郎(ばんどう またさぶろう、1853年/1854年(嘉永6年)ごろ - 1906年(明治39年))は歌舞伎役者。
守田座の出方中西重兵衛の次男に生まれた。本名四方八[1][2]。
浅草柳盛座において、9代目市川團十郎に似せた演技により、「二銭団洲」(「入場料二銭の劇場の團十郎」の意味[3])の名で親しまれた。
経歴
[編集]1873年(明治6年)ごろ、師の6代目坂東三津五郎の死去により、大阪に移り、約6年間修業した[1]。
1879年(明治12年)ごろ、名古屋に移り、坂東秀調_(2代目)一座に加わる。このとき、女形から立役となる[1]。
1881年(明治14年)、東京に戻り、坂東三津右衛門の名で四谷桐座に出演[2]。
1891年(明治24年)ごろから、坂東和好の名で柳盛座に出演[3][2]。
1897年(明治30年)7月から、 晩年の12代目守田勘彌に弟子入り、坂東又三郎と改名して、浅草宮戸座に出演[3][2]。
1899年(明治32年)8月31日、歌舞伎座に出演、この日限り入場料10銭として話題になった[4]。演目は「酒井の太鼓」ほか[3]。
1906年(明治39年)2月16日、持病の気管支喘息に 胃癌を併発して死去(『國民新聞』1906年2月18日)[5]。享年53。谷中瑞輪寺_(台東区)に埋葬された[1][2]。
芸風
[編集]- 9代目市川團十郎に似せようと、 顔を長く見せるため、額の生え際を剃り、 銭湯で剃り跡を軽石で磨いたりした。同じ築地に住み、机に書物を山積みにしていた。(「二錢團洲坂東和好」『 読売新聞』明治26年7月27日[6])
- 「似て非なるものを指して二銭団洲という通語さえも出来た」「和好の芸を一度観て置かなくては劇通とはいわれない、というような一種の流行を作り出した」(岡本綺堂[3])
- 「柄は小さいが、にらみがきいて、芸が大きく見えた」(渋沢青花[7])
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『歌舞伎』1906年3月号、歌舞伎発行所、1906年。
- 岡本綺堂『明治劇談 ランプの下にて』岡倉書房、1935年。
- 『新聞集成明治編年史第8巻』財政経済学会、1935年。
- 『新聞集成明治編年史第13巻』財政経済学会、1936年。
- 『歌舞伎年表第8巻』岩波書店、1963年。
- 渋沢青花『浅草っ子』毎日新聞社、1966年。
- 『近代日本総合年表』岩波書店、1968年。