坂本成方
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 承応2年(1653年) |
死没 | 正徳3年閏5月22日(1713年7月14日) |
別名 | 久五郎、小左衛門(通称) |
戒名 | 日玄 |
墓所 | 東京都港区北青山の持法寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
氏族 | 坂本氏 |
父母 | 父:坂本重治、母:高橋氏 |
兄弟 |
成方、治之、直規、 養女(花房正之の妻)[注釈 1] |
妻 |
正室:小出有重の娘 継室:中西元照の娘 |
子 | 養子:直規 |
坂本 成方(さかもと しげかた[1])は、江戸時代前期の旗本。短期間存在した相模国深見藩の嫡子だった。
生涯
[編集]承応2年(1653年)、当時は300石取りの大番士であった[2]坂本重治の子として誕生。万治3年(1660年)、8歳で徳川家綱に拝謁[1]。延宝6年(1678年)、小姓組番士として出仕する[1]。
この間、父の重治は寛文2年(1662年)に小納戸に昇進していた[2]。重治は天和元年(1681年)に大目付を経て、翌天和2年(1682年)に寺社奉行に就任、7800石という大幅な加増を受けて1万石の大名に列した(深見藩)[1]。成方は、父が大名に列したことを受けて番を免じられ[1]、貞享元年(1684年)には菊間広縁詰となった[1]。
ところが貞享4年(1687年)5月14日、重治は徳川綱吉の勘気を被り、寺社奉行を罷免の上、蟄居を申し付けられる[1]。成方も父に連座し、拝謁をはばかることとなった[1]。元禄2年(1689年)6月4日、父の蟄居処分は赦されたが、7800石の加増分を没収されて2200石の旗本身分(小普請)となった[1]。成方も同日処分を赦される[1]。
元禄6年(1693年)に父が死去[1]。成方が家督を継ぎ、次弟の治之[注釈 2]に500石を分知して、1700石の旗本となった[1]。
小普請のまま、正徳3年(1713年)に61歳で死去した[1]。子はなく、三弟の直規に跡を継がせている[1]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第百三十一
- 『寛政重修諸家譜 第一輯』(国民図書、1922年) 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『新訂寛政重修諸家譜 第三』(続群書類従完成会)