坂本天山
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坂本 天山[1](さかもと てんざん、延享2年5月22日(1745年6月21日) - 享和3年2月29日(1803年4月20日))は、江戸時代の砲術家。信濃国高遠藩士。諱は俊豈(としやす)、通称孫八。遊臥楼と号す。
高遠藩士・坂本運四郎英臣の長男として高遠城下の荒町に生まれる。明和5年(1768年)、大坂の荻野照良に砲術を学び、帰郷して『銃陣詳説』などを著す。同7年(1770年)に藩主内藤頼由の参勤交代に随行して江戸に出府し、荻生徂徠門下の大内熊耳に入門し復古学を修める。のち荻野流を研鑽して「荻野流増補新術」として「周発台」を発明し、自藩の砲術に採用された。天明3年(1783年)から藩の郡代も務め、治山治水に努めたが、反対派のために失脚し、三年間蟄居閉門となった。
のち脱藩して大坂、彦根藩、長州藩、大村藩などで砲術と儒学を教授し、享和2年(1802年)、平戸藩主松浦清から招待され藩士の教育にあたった。同3年(1803年)長崎で病没。『紀南遊嚢』などの漢詩集を残した。
1915年(大正4年)に従五位を遺贈された[2]。孫娘の桂が島崎重韶(島崎藤村の祖父)の後妻となった[3]。
註
[編集]参考文献
[編集]- 『坂本天山先生遺墨集』(信濃偉人遺墨顕彰会、1933年)
- 『三百藩家臣人名事典 3』(新人物往来社、1988年)
- 角憲和『阪本天山―信州高遠の生んだ明治維新の先覚者』(岳風書房、2000年)