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坂齋小一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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さかさい こいちろう
坂齋 小一郎
生年月日 1909年
没年月日 1985年
職業 映画プロデューサー撮影技師労働運動家実業家児童文学者
ジャンル ドキュメンタリー映画教育映画
活動期間 1931年 - 1985年
活動内容 1931年 新興キネマ京都太秦撮影所技術部
1932年 同社解雇、争議団結成
1933年 日本共産党京都市委員会委員長就任、検挙
1941年前後 撮影技師となる
1947年 労働組合映画協議会に参加
1950年 共同映画社創立、代表
1963年 同社株式会社化
配偶者 坂齋 ハツ
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坂齋 小一郎坂斎-、さかさい こいちろう[1]1909年 - 1985年[2])は、日本の映画プロデューサー撮影技師労働運動家実業家児童文学者である。姓の「ばんざい」[3]の読みは誤り。

人物・来歴

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1909年(明治42年)に生まれる[2]

22歳を迎える1931年(昭和6年)に帝国キネマ演芸新興キネマへと改組され、坂齋は同社の京都太秦撮影所(現在の東映京都撮影所)技術部に入社、撮影助手をつとめるが、翌1932年(昭和7年)4月、会社の人員整理の方針に反対した同志とともに同社を解雇される[4]。坂齋の解雇を期に「新興キネマ争議団」を結成、争議が開始され、同年6月に沈静化した[4]

1933年(昭和8年)5月の京都市議選の前後に、日本共産党京都市委員会が再建され、坂齋が同委員長に就任する[4]。同時期に京都大学で起きた瀧川事件に直面、瀧川幸辰解雇反対運動を同大の高木養根とともに学外から支援した[4]。同年6月20日、坂齋は高木ら83名とともに一斉検挙された[4]

その後、1936年(昭和11年)に設立された同盟通信社に参加[2]、1941年(昭和16年)には銀座の十字屋の文化映画部が製作したドキュメンタリー映画『映画は前進する』に、撮影技師としてクレジットされた[2]。同年、社団法人日本映画社が設立され、その後同社に入社し、1943年(昭和18年)からは陸軍報道班とともに太平洋戦争を記録する映画の現場に、撮影技師として参加した[2]

第二次世界大戦後は、1947年(昭和22年)6月、国鉄労働組合等、40数労組が設立した「労働組合映画協議会」に参加、同協議会の事業部門として、1950年(昭和25年)10月1日に共同映画社を創立し[5]、代表に就任する[2]。以降多くの映画の製作・配給・上映を行い、1963年(昭和38年)8月12日、同社を株式会社として登記した[5]

67歳を迎える1976年(昭和51年)6月、自伝『映画に生きる』を上梓する[1]。同年から、児童文学を執筆、発表する活動を始めている[1]

1985年(昭和60年)に死去した[2]。満75-76歳没。

坂齋の没後、ハツが資金を提供し東京都墨田区の多聞寺に「映画人の墓碑」を建立した[6]

おもなフィルモグラフィ

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撮影

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プロデューサー

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ビブリオグラフィ

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国立国会図書館所蔵作品リスト[1]

共著者 : 安部公房国分一太郎芥川也寸志針生一郎原弘岩崎昶中村利一日本幻灯文化社下村正夫人形座川崎大治稲庭桂子渡辺勉土門拳石垣純二

関連事項

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  1. ^ a b c d 国立国会図書館蔵書検索・申込システム「NDL-OPAC」での「坂齋小一郎」の検索結果を参照。
  2. ^ a b c d e f g h 坂斎小一郎と共同映画社東京国立近代美術館フィルムセンター、2009年10月5日閲覧。
  3. ^ 坂斎小一郎allcinema、2009年10月5日閲覧。
  4. ^ a b c d e 第三章 フランソア喫茶室開業京都大学京都大学大学院文学研究科・シニアキャンパス、2009年10月5日閲覧。
  5. ^ a b 会社案内共同映画、2009年10月5日閲覧。
  6. ^ 映画人の墓碑、共同映画、2009年10月5日閲覧。
  7. ^ 映画を記録する東京国立近代美術館フィルムセンター、2009年10月5日閲覧。

外部リンク

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