土橋一次
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土橋 一次 | |
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生誕 |
1886年5月6日 大日本帝国鹿児島県 |
死没 |
1954年4月22日(67歳没) 日本 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1905年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
土橋 一次(つちはし いちじ、1886年(明治19年)5月6日 - 1954年(昭和29年)4月22日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]鹿児島県出身。土橋次郎助の二男として生まれる。熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1905年(明治38年)11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月、砲兵少尉に任官し近衛砲兵連隊付となる。1910年(明治43年)11月、陸軍砲工学校高等科を卒業。1917年(大正6年)11月、陸軍大学校(第29期)を卒業した。
砲工学校教官、兵器局課員、中国出張などを経て、1922年(大正11年)7月から1928年(昭和3年)7月まで、北京政府応聘による北京陸大教官を務めた。支那駐屯軍司令部付、第6師団司令部付などを経て、1930年(昭和5年)8月、砲兵大佐に昇進し長崎要塞司令官に就任。野戦重砲兵第7連隊長、台湾軍参謀などを歴任し、1935年(昭和10年)8月、陸軍少将に進級。
陸軍技術本部総務部長、陸軍自動車学校長を歴任し、1938年(昭和13年)7月、陸軍中将となり新編の第22師団長に親補され、中国戦線で活動。1941年(昭和16年)3月、第12軍司令官となる。1942年末に第12軍所属部隊で発生した館陶事件の責任を問われて転任、参謀本部付を経て、1943年(昭和18年)4月、予備役に編入された。1945年(昭和20年)3月に召集され陸軍兵器本廠付となり、翌月、熊本師管区司令官となり終戦を迎えた。同年10月に召集解除となった。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]。
栄典
[編集]- 勲章等
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[2]