コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

土支田村

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

土支田村(どしだむら)は、東京府北豊島郡に存在した

土支田村は大村であったため、上組下組に分けられた後の上土支田村下土支田村も合わせて記す。現在の練馬区土支田は、土支田村下組(下土支田村)の一部に過ぎない。

地理

[編集]

歴史

[編集]

地名の由来は定かではなく、土器の生産集団(土師氏)が住んでいたからという説、鎌倉時代以降に仏田や神田の斎田(ときた)が訛ったのだとする説がある[3]

戦国時代の役帳には、江戸太田家当主太田康資の寄子源七郎に「江戸土志田」という所領が与えられており、同地だと推定されている[3]。江戸時代には豊島郡野方領土支田村となり、当初は天領。1663年(寛文3年)に稲葉正則の所領となるが、再び天領に戻る[3]寛政年間に村人らによって非公式に上組・下組に分割され、明治年間に入って正式に分村。それぞれ上土支田村・下土支田村となった[4]

上土支田村

[編集]

当初は豊島郡に所属していたが、1878年(明治11年)、郡区町村編制法の施行によって発足した北豊島郡の一部となった[5]。1889年(明治22年)4月1日、町村制施行に伴い、明治の大合併が発生。上石神井村、下石神井村、関村、上土支田村、谷原村、田中村(飛地:田中新田)、竹下新田村の7村を合併し、北豊島郡石神井村が誕生。上土支田村は石神井村の大字となった。1891年(明治24年)に大字上土支田は北豊島郡大泉村に編入され、同村の大字となった[6]。1932年(昭和7年)10月1日、大泉村は、石神井村・上練馬村・板橋町上板橋村志村赤塚村練馬町中新井村とともに東京市へ編入され板橋区の一部となる[7]

下土支田村

[編集]

上土支田村と同じく当初は豊島郡、1878年以降は北豊島郡[8]。1889年(明治22年)の明治の大合併で、東京府北豊島郡上練馬村と合併し、上練馬村を形成した[9]。1932年(昭和7年)に神練馬村が板橋区の一部となる[7]

板橋区成立後

[編集]

字上土支田、字下土支田は消滅し、それぞれ板橋区東大泉町、同区練馬土支田町1-2丁目となった[4][8]。1947年(昭和22年)8月1日、板橋区から旧1町4村(練馬町上練馬村中新井村石神井村・大泉村)の区域が分離独立して練馬区となったが、上土支田・下土支田は町名として復活せず、旧下土支田村の一部が土支田の町名で残るのみとなった[3]

寺院・神社

[編集]
  • 北野神社 - 大泉村大字上土支田691番地、現東大泉4-25-4
  • 北野神社 (現 土支田八幡宮) - 上練馬村大字下土支田字俵久保、現土支田4-28-1
  • 妙延寺 - 大泉村大字上土支田926番地、現東大泉3-16
  • 妙安寺 - 上練馬村大字下土支田字後安、現旭町3-10
  • 本覚寺 - 上練馬村大字下土支田字西八丁堀、現旭町1-26

文化財

[編集]
  • 小島家文書 - 土支田村下組の名主・小島家に伝わる約1500点の文書[10]

脚注

[編集]
  1. ^ “かみどしだむら【上土支田村】東京都:練馬区”. 日本歴史地名大系. 
  2. ^ “しもどしだむら【下土支田村】東京都:練馬区”. 日本歴史地名大系. 
  3. ^ a b c d “どしだ【土支田】東京都 練馬区”. 新版 角川日本地名大辞典. 
  4. ^ a b “かみどしだ【上土支田】東京都 練馬区”. 新版 角川日本地名大辞典. 
  5. ^ “きたとしまぐん【北豊島郡】東京都:武蔵国”. 日本歴史地名大系. 
  6. ^ “しゃくじい【石神井】東京都 練馬区”. 新版 角川日本地名大辞典. 
  7. ^ a b “いたばしく【板橋区】東京都 板橋区”. 新版 角川日本地名大辞典. 
  8. ^ a b “しもどしだ【下土支田】東京都 練馬区”. 新版 角川日本地名大辞典. 
  9. ^ “かみねりま【上練馬】東京都 練馬区”. 新版 角川日本地名大辞典. 
  10. ^ “指定文化財に2件決める/東京・練馬区”. 読売新聞 東京朝刊: p. 24. (1990年2月28日) 

関連項目

[編集]