土支田村
土支田村は大村であったため、上組下組に分けられた後の上土支田村、下土支田村も合わせて記す。現在の練馬区土支田は、土支田村下組(下土支田村)の一部に過ぎない。
地理
[編集]- 上土支田村は、現在の東京都練馬区東大泉、土支田3丁目、大泉町2丁目、三原台1-3丁目に相当する[1]。
- 下土支田村は、現在の東京都練馬区土支田1-4丁目、旭町1-3丁目、高松5-6丁目、田柄4丁目、谷原4・6丁目、光が丘4-5丁目に相当する[2]。
歴史
[編集]地名の由来は定かではなく、土器の生産集団(土師氏)が住んでいたからという説、鎌倉時代以降に仏田や神田の斎田(ときた)が訛ったのだとする説がある[3]。
戦国時代の役帳には、江戸太田家当主・太田康資の寄子源七郎に「江戸土志田」という所領が与えられており、同地だと推定されている[3]。江戸時代には豊島郡野方領土支田村となり、当初は天領。1663年(寛文3年)に稲葉正則の所領となるが、再び天領に戻る[3]。寛政年間に村人らによって非公式に上組・下組に分割され、明治年間に入って正式に分村。それぞれ上土支田村・下土支田村となった[4]。
上土支田村
[編集]当初は豊島郡に所属していたが、1878年(明治11年)、郡区町村編制法の施行によって発足した北豊島郡の一部となった[5]。1889年(明治22年)4月1日、町村制施行に伴い、明治の大合併が発生。上石神井村、下石神井村、関村、上土支田村、谷原村、田中村(飛地:田中新田)、竹下新田村の7村を合併し、北豊島郡石神井村が誕生。上土支田村は石神井村の大字となった。1891年(明治24年)に大字上土支田は北豊島郡大泉村に編入され、同村の大字となった[6]。1932年(昭和7年)10月1日、大泉村は、石神井村・上練馬村・板橋町・上板橋村・志村・赤塚村・練馬町・中新井村とともに東京市へ編入され板橋区の一部となる[7]。
下土支田村
[編集]上土支田村と同じく当初は豊島郡、1878年以降は北豊島郡[8]。1889年(明治22年)の明治の大合併で、東京府北豊島郡上練馬村と合併し、上練馬村を形成した[9]。1932年(昭和7年)に神練馬村が板橋区の一部となる[7]。
板橋区成立後
[編集]字上土支田、字下土支田は消滅し、それぞれ板橋区東大泉町、同区練馬土支田町1-2丁目となった[4][8]。1947年(昭和22年)8月1日、板橋区から旧1町4村(練馬町・上練馬村・中新井村・石神井村・大泉村)の区域が分離独立して練馬区となったが、上土支田・下土支田は町名として復活せず、旧下土支田村の一部が土支田の町名で残るのみとなった[3]。
寺院・神社
[編集]- 北野神社 - 大泉村大字上土支田691番地、現東大泉4-25-4
- 北野神社 (現 土支田八幡宮) - 上練馬村大字下土支田字俵久保、現土支田4-28-1
- 妙延寺 - 大泉村大字上土支田926番地、現東大泉3-16
- 妙安寺 - 上練馬村大字下土支田字後安、現旭町3-10
- 本覚寺 - 上練馬村大字下土支田字西八丁堀、現旭町1-26
文化財
[編集]- 小島家文書 - 土支田村下組の名主・小島家に伝わる約1500点の文書[10]。
脚注
[編集]- ^ “かみどしだむら【上土支田村】東京都:練馬区”. 日本歴史地名大系.
- ^ “しもどしだむら【下土支田村】東京都:練馬区”. 日本歴史地名大系.
- ^ a b c d “どしだ【土支田】東京都 練馬区”. 新版 角川日本地名大辞典.
- ^ a b “かみどしだ【上土支田】東京都 練馬区”. 新版 角川日本地名大辞典.
- ^ “きたとしまぐん【北豊島郡】東京都:武蔵国”. 日本歴史地名大系.
- ^ “しゃくじい【石神井】東京都 練馬区”. 新版 角川日本地名大辞典.
- ^ a b “いたばしく【板橋区】東京都 板橋区”. 新版 角川日本地名大辞典.
- ^ a b “しもどしだ【下土支田】東京都 練馬区”. 新版 角川日本地名大辞典.
- ^ “かみねりま【上練馬】東京都 練馬区”. 新版 角川日本地名大辞典.
- ^ “指定文化財に2件決める/東京・練馬区”. 読売新聞 東京朝刊: p. 24. (1990年2月28日)